「『無理しない範囲で』という希望」筆者・法政大学キャリアデザイン学部 教授 児美川孝一郎

かつて、村上龍は『希望の国のエクソダス』(文藝春秋、2000年)で、
登場人物の中学生に次のような言葉を吐かせた。

 「この国には何でもある。……だが、希望だけがない」

本が出版された当時、教育関係者のあいだでも話題になったフレーズである。
僕自身も、半ば驚き、半ばは感心した記憶がある。
言うまでもなく、この国というのは、バブル崩壊後、
ずっと不景気が続いていた日本を指す。そして、その後はと言うと、
当時の「失われた10年」は、今では「失われた30年」に延びている。
とすると、今どきの中学生たちは、(もう少し広く)若者たちは、
希望を持てていないのだろうか。
偶然かもしれないが、村上がこの小説に登場させたのは、不登校の中学生の集団だった。
周知のように、不登校はここ数年、急上昇を続けているということもある。

新年度がはじまったということもあって、ついこんな連想が膨らんでしまった。
自分の周囲にいる学生を見ていると、期待に胸を膨らませて(?)入学してきた(はずの)
彼/彼女らが、いっさいの希望を持っていないようには思えない。
しかし、結論的に言ってしまうと、今どきの学生が抱いている「希望」なるものは、
おそらく25年以上前に村上龍が想定したのであろう「希望」とは、
内容的にも、性格的にも、かなり異なっているのではないか。

僕なりの理解を披露させてもらえば、
今どきの学生が持つ希望には、いくつか顕著な特徴がある。

1つめ。前回のコラムでも書いたが、学生たちは、現状に不満を持つがゆえに、
それとは異なる未来を希求しているわけではない。
彼/彼女らは、おおかたのところ現状に満足している。
2つめ。現状に満足しているのに、それでも彼/彼女らが持つことになる希望は、
この国や社会、若者が置かれた状況を変革するといった外向きのものでは、およそない。
自分の「成長」や「個性」の発揮、ワークライフ・バランスの実現や
「推し活」を続けられるといったことが、希望になる。
希望は、脱社会化され、内向化している。
3つめ。希望の内容はともかくも、
その実現のためには、学生たちはしゃかりきになって頑張るのか、
他のことを犠牲にしてでも希望を追い求めるのかと言うと、それは違う。
けっして無理をしない範囲で、無茶をすることなく追いかけるのが、
彼/彼女らの希望なのである。

うーむ、と思ってしまう読者もいるだろうか。
いや、僕自身、拍子抜けするというか、ハシゴを外されたような気分になることもある。
しかし、そんな学生たちの「希望」に寄り添いながら、
彼/彼女らの将来設計やその準備のサポートをするのが、
まぎれもなく大学におけるキャリア支援者の仕事なのである。

【プロフィール】
教育学研究者。
1996年から法政大学に勤務。
2007年キャリアデザイン学部教授(現職)。
日本キャリアデザイン学会理事。
著書に、『高校教育の新しいかたち』(泉文堂)、
『キャリア教育のウソ』(ちくまプリマー新書)、
『夢があふれる社会に希望はあるか』(ベスト新書)等がある。