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英語学習を振り返って(その6)外務省の在外公館勤務で得た諸体験【ロシア勤務時代】筆者:城所卓雄

英語学習を振り返って(その6)外務省の在外公館勤務で得た諸体験【ロシア勤務時代】

1. はじめに
(1)勤務振り
 私は、1983年から約1年半、在レニングラード総領事館(注:現在の在サンクトペテルブルク総領事館)の首席領事、翌1984~86年在ソ連大使館(注:現在の在ロシア大使館)の一等書記官、1999~2003年在ロシア大使館の参事官、2005~2009年在サンクトペテルブルク総領事館(以下、「ペテルブルク総領事館」)の総領事をそれぞれ務めました。ロシア勤務は、4回で通算10年間となりました。

(2)日本に関する興味
 この間に、ソ連邦からロシア連邦に変化しました。ロシア人の日本・日本人に対する理解度は、年々高まりつつあり、特に、文化面では、音楽、料理、武術(柔道、剣道、空手)などに興味があり、皆さん盛んに練習されます。日本料理に眼を向けて見ますと、天ぷら、寿司、刺身、焼き鳥、ラーメン、そば、梅酒、お茶などが大好きです。
 さらにロシア人は、様々の機会に、心のある対応(災害などの緊急支援、ウイルス予防の薬支援)をしてくれておりますので、この機会には感謝申し上げる次第です。 

(3)ロシアにおける日本語教育の開始
 ロシアにおける日本語教育の開始時期につきましては、諸説ありますが、1702年とか03年もあります。私がペテルブルク総領事として着任しました2005年5月に、日本語教育開始300周年の記念式典がありました。
 当時の先生は、デンベイさんでした。1736年、ソーヤとゴンザさんが、日本語学校で指導を始めました。1754年、この日本語学校がイルクーツクの航海学校に移転しました。1898年、ペテルブルク国立大学に日本語学課が設立され、2008年、私が総領事時代に、この110周年記念式典に招待されました。これらの日本語教育の指導展開から判断できのは、多分、世界で最初の日本語教育が指導されたのは、このロシアであろうかと思います。ハーバード大学で日本語指導したエリセエーフ先生は、勿論ロシア人で、それらの学生の中には、後に駐日米国大使になられたライシャワー教授がおられました。

2. モスクワ体験
(1)日本語・文化・柔術の高さ
 1956年、モスクワ大学に東洋語学大学が設立されて以後、日本語指導・研究のレベルは高まると同時に、ロシア人の日本語学習レベルも相当向上しました。私がコンタクトしたことのあるロシア人、特に、外公官の日本語レベルは、うらやましいほどの高いレベルでした。これと同時に、モスクワ市内の柔道場などを見物しますと、柔道人口は、日本、フランス、ロシアの中で、どこの国が一番多いのかについて、きちっと把握すべきであると思いました。

(2)モスクワ空港でのある出来事
 2000年、シェレメーチェボ空港での出来事でした。ある日本人夫妻が業務を終了し日本に帰国する際、ご夫人のハンドバッグを持つ手が震えていたとかで、出国時の税関の係員が、その夫人のハンドバッグを明けるように命じましたら、その夫人は仕方なくそのハンドバッグを開けましたら、何と、日本円で100万円が出て来たとかで、その100万円は、その場で没収されたとのことでした。
 この夫妻を見送りに来ていた館員より、電話が入り、「こう言う次第で、100万円が没収されたので、城所参事官、助けて欲しい」との依頼でした。この100万円は、夫人の両親から保険代の一部として預かって来ましたが、ご主人には何も伝えていないことが判明しました。そこで、私より、ロシア外務省の日本部の幹部に電話し、「夫婦間のコミューニュケーションの悪さが原因で、そもそも入国時に記載しなかった事にも問題があった」と釈明の上、「この100万円の返却」を申し入れました。大使館内の同僚達に、本件の流れを紹介しましたら、皆さんから、「参事官、ここはロシアなので没収されたお金は戻りません」と言われましたが、2週間後に、見事にこの100万円が返却されたことがありました。

(3)外国の地名・氏名の語源・意味に興味を持ち始めたきっかけ
 1984年、最初のモスクワに在勤時代に、「モスクワ」や「クレムリン」や「アルバータ通り」などの地名の意味・語源について、ロシア人に質問しても何方からも回答をもらえませんでした。その後、約10年間かけて、これらの意味・語源は理解出来ました。
 2011年、駐モンゴル大使の職務を終了する前に、恒例のモンゴルの外務大臣主催の昼食会があり、B外務大臣より、ロシア国内にある地名のうち例えば、「モスクワ、クレムリン、アルバータ通り、バイカル湖、チュメニ、シベリアなどの意味・語源は何でしょうか」との質問が出ましたので。私より、ひとつ一つ丁寧に説明しましたら、B外務大臣より、「全て正解、どうしてそんな意味・語源まで知っているのですか」との質問が出ましたので、私より、「モスクワ勤務時代にロシア人に質問しても何方からも回答がなかったのでケンブリッジ大学などの書籍を調査した結果、全てモンゴル語が語源である事が判明し、その意味も認識する事が出来ました」と回答しますと、B外務大臣から、「これらの質問に全て正解したのは、貴使が初めです」とおほめいただきました。

(4)(外国(米国)の大使館の医務官に救われたケース
 ソ連大使館時代に、在留邦人の中で、ある2才半のお子さんがおられました。丁度、大使館の医務官が留守でしたので、看護担当より総務担当の私に電話が入りました。夕方17:30頃の事でした。「モスクワ市内の病院で、2才半のお子さんが盲腸と診断され、只今、ベッド上で待機しています。後30分程で、手術に入るようです」との内容でした。私は、ソ連の医療について若干不安を感じ得ていましたので、友人でもある米国大使館の医務官に電話連絡しましたら、「ここは、ソ連の病院なので、盲腸の手術をするのは、危険。22:30になったら、米国大使館の医務官室にそのお子さんを連れてくるように」とのアドバイスがありました。指定された医務官室にご両親とそのお子さんを連れて、私と看護担当で医務官室に参り、診断してもらいました。そうしましたら、その医務官より、「ミスター・キドコロ、誓っても、この子は、盲腸などではない」と診断され、無事ご自宅に戻る事ができました。

(5)原子力発電所の事故との出会い
 1986年5月1日、モスクワにて、丁度メーディでお休みの時の晩のテレビのニュースにて、2度の爆発事故で、原子炉と核燃料が吹き飛んだ旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原発4号機の事故が報じられました。その数日前から、北欧のマスメディアが、旧ソ連のある地方で、原発の事故が発生し、それらの空気汚染が、北欧方面に届いているのではないかとの報道がありましたが、確認出来ないまま過ぎていました。結果的には、4月26日に発生した原発事故が、数日間公表されず、5月1日に報道された次第です。
 モスクワの大使館として、5月1日より原発事故の対応策に出始めました。筆者は、総務部長として、外務本省とコンタクトを取りながら、モスクワ市内で購入しましたミルクや野菜や果物を東京に送り、調査分析してもらいました。結果的には、これらのミルクや野菜や果物は、飲んだり食べたりしない方が望ましいとの判断を頂きました。そこで、筆者は、東京の農水省の友人に電話し、チェルノブイリの原発事故の影響によりモスクワ周辺でのミルクや野菜や果物を飲んだり食べたりしない方が望ましいとの判断に接していますと説明しましたら、その友人より、「モスクワ在住の邦人の乳幼児用にミルクを毎週100リター、約3ヶ月間差し上げます」との回答を頂きました。そこで、筆者は、直ぐ、大使館の幹部に報告の上、JALのモスクワ支店に電話にて連絡し、上記農水省からの対応について紹介の上、これらの輸送量をJALのご配慮にて無料にてお願いしたいと申し入れましたら、JALからも、その場にて、「勿論、歓んで輸送量は無料にて対応しましょう」との回答を頂きました。
 このミルクに対する心温まる対応をしてくれました農水省とJALのご配慮は、今もって忘れる事は、できません。少し残念でしたのは、このミルクの送付が全て終了する前に、筆者は、既に決まっておりました次の任地であるシスコ総領事館に転勤した事でした。

3.ペテルブルク勤務時代
(1)ノーベルが少年時代に過した町
 ペテルブルク総領事時代に、車で地方に出張しました帰路に、全く面識のないロシア人から私に対し、「ペテルブルクに戻られるのであれば、自分を貴総領事の車に乗せて欲しい」との依頼に接しました。もちろん、同乗させてあげて、車中で約1時間程談笑しました。下車する前に、このロシア人から、「貴総領事は、ペテルブルクだけでなく、ロシア事情にも大変お詳しいですが、1点だけ説明したい」と前置きの上、ペテルブルクの市内のネバ川の脇に下車すると、「このネバ川の反対側にある建物が、ノーベルの父親が経営していた会社で、あちらがその住居でした」と紹介してくれました。
 全く初耳の事でしたので、早速、スエーデン総領事に電話しました、総領事より、「その通りです。後日、関連資料をお手元に送りましょう」と仰ってくれました。これをきっかけきに、ノーベルのペテルブルクでの少年時代について勉強しました。何故なら、ノーベル賞を作成しました、ノーベルが少年時代にペテルブルクで父親の元で生活していたとは、全く知りませんでしたから。
 ノーベルは、1842年、9才の時、父親の仕事の現場であったペテルブルクに引っ越し1844年まで現地校に通学、1850年パリに留学、科学を学び、1851年、さらに米国に留学、科学を学び再度ペテルブルクに戻り、1859年、スエーデンに帰国。更に不思議なご縁を感じましたことは、2012年、私がN大学(名古屋大学)で参与、2013年客員教授、2014年特任教授になりました当時、N大学は2000年以降でノーベル賞受賞者を6名輩出された事で、これも何かのご縁かなと認識しました次第です。

(2)日本文化を尊敬する町
 上述しました通り、ペテルブルクは、ロシアで最初の日本語教育が指導されたところでしたが、ペテルブルク総領事時代に、日本語コンテスト、日本音楽祭などの文化行事に招待され、その都度か感銘を受けておりました。エルミタージュ美術館、大学などを中心としました素晴らしいイベントでした。本日は、ペテルブルク市内にあります第83番中学校からの招待により訪問しました当時の印象を報告致します。全校生徒数は約1、000名だそうですが、その日のイベント関係者は、教員及び生徒で合計約300名でしたが、全員着物姿でした。文化行事の紹介・説明は、全て日本語で行われました。歌われた歌は、殆ど日本の歌でした。
 一番感銘しましたのは、「バラが咲いた、バラが咲いた、真っ赤なバラが」と歌い出しましたので、後で照会しましたら、「これは校歌です」との回答をもらい、これも驚きでした。日本の学校の中に、外国の歌を校歌にしている学校が、あるのでしょうか。生徒の着物について、「生徒全員が着物を持っているのですか」と照会しましたら、「3名ほどが着物を持っていなかったので、教員が急遽縫製しました」との回答がありました。
 ロシア人の学生、特にペテルブルク市内周辺の学生は、日本文化・歴史・柔道などのスポーツにもとても興味・関心がありましたので、その辺りの情報も提供したいと思います。日本の音楽に・興味・関心があったある学生は、東京芸術大学に留学し、その後、大学院に進学したとの情報にも接しました。何名からの学生が日本への留学生試験に合格しました。当然、総領事館の文化・留学担当官がこれらの留学受験者に合格を伝えましたが、何名からかは、「同じ時期に受験した米国先の留学の方が、試験合格後のビザなどの留学手続きが日本より迅速であったので、希望した日本への留学ではなく、米国へ留学する事としました」との回答があり、残念であった事を今でも思い出します。
 2008年9月、ペテルブルク総領事時代の心温まる思い出です。「日露戦争の日本人捕虜慰霊記念碑建立除幕式」が、ノブゴロド州のメドヴェージ村の式典会場にて開催されました。筆者は、総領事として招待され、祝辞を読み上げました。その際、「日本人の捕虜が黒パンを食べる事が出来ないで苦労していた際、捕虜収容所の係官が、これを手助けして、白パンを提供してくれたケース」を紹介、御礼を申し上げました。この式典の前に、村長主催の昼食会がありました。メドヴェージ村は、人口が僅か1,000名程の小さな村落でしたので、昼食会のメニューも粗村落の職員食堂の様でした。
 筆者は、モンゴル勤務の経験がありますので、フライド・ポテトは、大好物です。この日の昼食会にも、フライド・ポテトがサービスされました。そこで、筆者より村長に対し、「私は、フライドポテトは大好き人間ですが、本日のフライド・ポテトは大変美味しいです。村長、本日は、メニューにご配慮をして頂き、ありがとうございます」と謝意を述べました。この式典が終了し、ペテルブルクに戻ろうとして、自分の車に乗り込もうとしましたら、運転手より、「村長より、ジャガイモをお土産に貰いました」との発言がありました。筆者は、ジャガイモのお土産とは、てっきり数個分程度と理解していましたが、総領事館に到着して見ましたら、何とジャガイモは、約10キロあり、これも感謝の気持ちで溢れました。―――ロシア人には、こう言う心のある対応があるのです。

4.フィンランドの医療
(1) 1983年、レニングラー総領事館の首席領事時代に、1才未満の息子は体調が優れず
隣国であるフィンランドにあるヘルシンキ国立大学病院に入院したことがありました。勿論、フィンランドの医療水準は、高いですので安心して入院できたのですが、息子は手術などもあり約2週間の入院を経て無事退院する事が出来ました。
 入院中、驚いたことがありました。私と家内と当時3才の娘がこの病院で、昼間は病院で息子と一緒、夜は、近所のホテルに宿泊しました。昼間病院にいる時、病院側は、入院中の子供を楽しませるプログラムを実施してくれますと共に、朝食、昼食、夕食を含めて娘の分は、全て無料扱いで提供いてくれました。
 退院時にさらに、驚くべきことが起こりました。息子の手術代、入院費が事実上無料扱いでしたので、私より病院側に、「私は、フィンランドでの税金は一切支払っていません。」と釈明しましたら、病院側からは、「フィンランド国内にいる方は、フィンランド人扱いですので、税金支払い云々は関係ありません」との素晴らしい回答を頂きました。退院する際、1年後、再チェックのため、本病院を訪問するようにとのアドバイスがありましたので、1年後モスクワ大使館勤務時代に、予め手術を担当してくれた医師とのアポを取り、再度、この病院を訪問しました。
 そうしましたら、病院側から、「この医師は、本日は、休診です」と言われたので、私からこの医師にお電話しましたら、「本日は、あなたの子さんの健康診断をチェックするため、休診したのです、他の業務があると、あなたのお子さんのチェックができなくなるのを恐れがあったからです。もう病院に着かれましたか。それでは、後15分程で病院に到着します」と言われた事がありました。これ以来、私はフィンランドに足を向けて眠る事が出来ません。

(2)2002年4月8日(お釈迦様のお誕生日)、筆者がモスクワ大使館に勤務時代に体調不良になり、救急車で、モスクワ市内の病院に搬送されました。半日入院しましたが、この病院では対応できないとして、急遽、フィンランドの病院に転院するように指示があり、その日の内にヘリコプターで搬送されました。約20年前、息子が入院しお世話になりました同じ病院に、父親が入院するとは、夢にも思っても見ない事でした。
 仕事上のストレスと太り過ぎが原因であった様でした。約3日間で、80キロの体重が15キロ減り、65キロとなり、その後約1週間、健康診断・チェックを終了し、無事、退院する事ができました。モスクワの大使館に戻り、医務官と協議しました結果、納得の行く迄体重を戻して宜しいとのアドバイスを頂きましたので、当初の体重を10キロ減らしました70キロにまで引き上げ、それ以後現在まで、体重は全く変化していません。
 振り返って見ますと、3日間で体重を15キロダイエット出来ましたフィンランドの医療技術に感謝・感激の毎日です。それと同時に、フィンランド国内に滞在する際、フィンランド人のデブで出会わない事が、不思議でなりません(隣国のデンマークやスエーデンでは、良くデブに出会いますので、フィンランド人のデブに出会わないことは、不思議な現象だと思います。最近、日本でも同じ様な現象に出会います。列車や電車に乗り込んで、一人で二人分の席を取っている方を良くお見かけします)。

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