進路ナビニュース

英語学習を振り返って(その5)外務省の在外公館勤務で得た諸体験【米国勤務時代】 筆者:城所卓雄

(1)米国在勤時代の内訳:
 私は、1976~79年、在米国大使館(以下、「在ワシントン大使館」)の二等書記官、1986~88年、在サンフランシスコ総領事館(以下、「在シスコ総領事館」)の領事、1979~99年、在シカゴ総領事館の首席領事を務めました。
 これらの米国勤務を通じて体感しました事は、米国では、外国人や海外からの留学生などの面倒を良く見てくれる方々で溢れている事を認識する事が出来ますと共に、大学を始め高等学校・中学校・小学校などで講演・講義・談笑の機会を与えてくれた事に、感謝申し上げたいです。

(2)ジョン・万次郎(以下、「万次郎」)との出会い:
 在シスコ総領事館に勤務中であった1987年、T在ボストン総領事(後の駐ロシア大使)からの依頼でボストンに出張しました際、T総領事のご案内で、マサチューセッツ州のフェアヘブンを訪問し、そこで、万次郎が生活を送った家を初めて眼にしました。その後、万次郎について自分で勉強すると同時に、万次郎が、日本に帰国する前に、カリフォルニア州がゴールドラッシュに湧いたサクラメント周辺に立ち寄り、日本への帰国資金約600ドルを貯めたと言われる砂金が採れる川へ出向き、実際に籠を借りて砂を採る練習をした事がありました。これは、在シスコ総領事館に勤務していましたから、出来た体験でした。
 万次郎は、1841年14才の時、仲間と共に漁をしている最中に台風に遭遇し、米国の捕鯨船に救助させられ、仲間と共に一時凌ぎのため生活していたハワイで、ホイットフィールド船長(以下、「ホ船長」)に出会い、ホ船長の故郷である米国のマサチューセッツ州に連れて行かれました。そこで、ホ船長の養子になり、英語、数学、航海術などを学び、成績は学校のトップで卒業したそうです。
 ホ船長に敬意・謝意を表したいのは、それまで、万次郎とは一面識もないのに、米国に連れて返り、学校を卒業する迄の授業料を含めて、英語学習などの様々な支援をしてくれて、最後は、母国・日本への帰国を許可してくれた事でした。
 万次郎は、「米国で学んだ内容を母国語で正確に表現出来る事、即ち、自分はもっと日本語を学ばなければならない」と悟っていた事は、特筆すべきです。万次郎は、幼少の頃8才の時、父親を早く亡くしたため、教育を充分受ける事が出来ませんでした。私は、万次郎が、日本人のグロ-バル人材第1号であると認識しております。しかし、母国・日本に帰国してまず取り組んだのは、不十分であった日本語学習でした。その後、通訳として、日米での和親条約交渉のため、咸臨丸に乗り込みました。万次郎の更なるの評価は、母国・日本に帰国した事、並びに、帰国後お世話になった日米関係の友好のために貢献された事の3点にあると思います。
 日本では、現在、小学校から外国語(英語学習)が開始されていますが、万次郎が体験しましたまず、「母国語を充分学び、それから、外国語学習に専念すべき」との哲学が、印象に残ります。母国語が不十分で、外国語の学習が上手く行く筈は、ありません。筆者も全く同感です。

(3)在ワシントン大使館時代
①沢山の親切に出会えました事
 国務省を始め他の省庁や組織のいろいろな方々に大変お世話になりました。特に、国務省の日本部の方々には、仕事以外にも週末に様々な行事やワシントン郊外を案内してもらったりして、素晴らしい勉強の機会を頂きました。特に当時の米国は、モンゴルとの間に外交関係が無かったので、情報分析局から良くお声がかかり、同局長のご自宅に招待されて、モンゴル情勢、周辺国であるモンゴル・ロシア関係、モンゴル・中国情勢、モンゴル・北朝鮮情勢などについて私なりの情報・体験談を紹介しました。
 在モンゴル大使館勤務時代に、インディアナ大学のモンゴル学のJ・H教授が屡々ウランバートルを訪問されていました。私よりその教授に、「近い内に米国に転勤する予定です」と紹介しましたら、その教授より、「ワシントンに着任されたら、まずお電話を下さい」との返事がありました。ワシントンに到着しまして直ぐその教授にお電話しましたら、「インディアナ大学でのモンゴル学の講義に来て欲しい」との依頼が入りました。第1回目の講義は、講義内容が良かったとかで、その日のうちに急遽2コマ目の講義となりました。これがきっかで、ジョージタウン大学、コロラド大学、シアトル大学などからも講演・講義依頼が入るようになりました。
 ワシントンの生活で良かった点は、次の2点でした。私と家内は、バージニア州サイドのアーリントンにあるマンションに入りました。まず、嬉しかったのは、このマンションでは、毎週末の朝、マンションの入り口付近のロビーで、マンション側が無料で提供してくれるドーナツと飲み物を交えて、同じマンションの住人と懇談する機会に恵まれました。その結果、私はテニスが好きなので、何人かのテニス仲間が出来、同じマンション内のテニスコートでテニスをプレイする事が出来ました。更に、何人かの人とは、お互いの部屋に招待してくれ、夕食などを交えて更に親しい友人となる事が出来ました。日本のマンションには、このようなサービスが、あるのでしょうか。
 もう1点は、同じアーリントン地区の住民で、1ヶ月に一度の頻度で、日本人の夫人だけを夕方の5時頃から集会し、懇談する機会がありました。これも日本人のご夫人達には、アーリントン周辺の情報や買い物情報を提供してくれると共に、英語会話能力の向上などにも貢献してくれました。

②沢山のインフラ(社会施設)に出会えました事
 筆者は、ドライブが好きでしたので、週末には、ワシントンD.Cから周辺の州に、時には、片道数時間ドライブして、目的地に辿り着いた事もありました。米国では、高速道路とは言わず、フリーウエイと呼ばれていました。これは、道路料金が無料ではなく、交通信号が無い、意味だそうでした。日本の高速道路では、30分程走りますと、約1,000円の料金を支払いますので、大きな違いでした。シスコ時代の隣人を、箱根方面にドライブし案内しました際、筆者が、15~30分毎に料金を支払うのを見ていて、「卓雄、何で、そんなに交通違反の罰金を支払うの」との照会がありましたので、筆者より、「これらは、交通違反の罰金ではなく、通常の料金を支払っているところです」と回答しましたら、この隣人は、妙に納得されました。―――日本では、高速道路は、全て有料ですね。
 同じような事は、ワシントンの外にあるテニスコートの使用料でした。公共施設であるテニスコートを使用しても、いつも無料でした。只一つ条件がありました。それは、次にテニスをプレイしたい方が待機している場合には、30分間だけ待機させて宜しい、即ち、プレイ中の者は、更に30分間、プレイを続けても宜しいとの事でした。これは、後のシスコでもシカゴでも全く同様でした。―――これも、全く同様ですね。

(4)在シスコ総領事館勤務時代
①一番古い在外公館
 在シスコ総領事館に着任して、まず驚いた事は、当総領事館が、日本の最初の在外公館であった事を認識出来た事でした。それまでは、てっきり、在ワシントン大使館が一番古い大使館であったと認識していたからでした。
 その後、いろいろ調査してみましたら、シスコが米国の西海岸として、日本からの表玄関で、船舶による日本人の来訪者は、C.Brooksが主に受け入れの業務を担当していたようです。そんな事もあり、江戸幕府の末期であった1867年(慶応3年)、江戸幕府から領事(これの漢字は、「岡氏」)を任命され、更に、明治政府からは、1870年(明治3年)領事に任命された。そんな次第で、ワシントンの大使館(当時は、「公使館」)より約1ヶ月程前にシスコの領事館が開設されていた事でした。その意味では、歴史的には大変名誉のある総領事館に勤務する事が出来、大変光栄な事でした。

②米国人や日系人による支援
 在シスコ総領事館勤務時代は、勿論、米国人や日系人を中心に交流の幅を拡げて行きました中で、素晴らしい支援が沢山ありました事を、今もって記憶しておりますので、これらの一部を次の通り紹介します。
 まず、ララ物資です。英語でLARA(Licensed Agency for Asia,「公認アジア救済連盟」と言う)とは、第二次大戦直後に、日本を救済するために、米国はもとより、カナダ、中南米からの官民支援による資金や物資を中心にした支援物資を送り出す窓口として、1946年一本化された窓口と認識していました。私が1952年小学校に入学しました当時の給食に差し出されたミルクは、このララ物資から作られたものでした。一番嬉しかったのは、毎月末の給食のミルクにコーヒーが混ざっていて、このミルクがとても美味しかったので、毎月末の給食が楽しみでした。
 シスコや近隣に在住の日系人から伺った内容は、「このララ物資は、米国人ではなく、日系米国人が中心となって、自らの物資を集荷し、それを纏めて祖国日本に送りました」との説明がありました。これらを更に深く調査して参りますと、第2次世界大戦中に、米国内で、「敵性外国人」と見なされ強制収容所に収容された日系米国人からの支援もあった事が判明して、驚いた事もありました。
 ある日系人がレストランを経営しておられて、そのお仕事のメインは、勿論、日本食をPRして営業をされておられました。これが、その後、シスコでの日本食ブームの起点となったようです。一度、この経営者にインタビューする機会がありました。日本食のPR・経営は当然な事なのですが、感激した事がありました。それは、1960年代に入り、シスコに日本からの留学生が沢山おられましたが、皆さん日常生活の資金繰りに苦労されていたようなので、こられの日本人留学生がこのレストランに食事に来られた時は、毎回、無料扱いのサービスをしておられたそうです。
 私は、在シスコ総領事館では、領事として叙勲も担当しておりましたので、勿論、この方には、勲章の授与が妥当と判断しまして、功績調書を作成しました。そして、総領事館で、勲章の授与式が実施される事になります。その間、某国会議員がシスコをご訪問されましたので、私からその議員に本件を伝えましたらその議員からも、「自分もその恩恵を受けた一人でした」との回答を頂きましたので、その議員も、この勲章授与式のために、日本からわざわざ参加して下さいました。
 1952年、シスコ平和条約が署名された後、外務省職員の米国研修が再開され、某研修生がシスコに到着されましたが、ワシントン行きの列車に乗り遅れとかで、シスコに1週間の滞在を余儀なくされましたが、資金不足もあり、困ったなと思っていましたら、全く面識もない米国人から、「よかったら、1週間、自宅に泊まっても良いですよ」との発言がありましたので、感激して、1週間、その方の家に宿泊されたそうです。この研修生は、最後は、駐米大使になられました。シスコやシカゴでの講演会の会場の機会には、講演の先立ち、まず、この体験談を紹介しますと、会場からは、割れんばかりの大拍手が巻き起こりました。
 シスコに転勤して、まず最初に取り組んだのは、住宅探しでした。住宅手当の範囲内で、事務所から適当な距離、子供が二人いましたので出来ましたら庭付きの一軒家、を条件に住宅探しに入りました。その一番良い候補住宅は、シスコのゲイトパークに近かったのですがバス停の直ぐ脇でしたので、全く面識のない候補住宅の隣の家のベルを押し、「隣の住宅に入りたいのですが、バスの離発着の騒音は、どの位でしょうか」と照会しましたら、その方から、「まず、部屋に入り、コーヒーでも飲みましょう」と薦められました。勿論、歓んで入室し、コーヒーを飲みながら約30分間程、ご夫妻と談笑しました。その間、バスの騒音が話題になりませんでしたので、私よりご夫妻に対し、「バスの騒音の件ですが」と話題を変えようとしましたら、このご夫妻より、「バスは既に数台離発着しました、騒音問題は、全くないですよ」とのご説明を頂きましたので、この住宅への入居を即断しました。入居しましてからも、このご夫妻による私の家族へのご親切は、その後もずっと続きました。
 筆者は、当初の1ヶ月間は単身で、その後、家内と娘(6才)と息子(3才)が到着します。このご夫妻から、「ご家族は、いつ到着されますか」と毎回しつこい程の照会がありました。筆者の回答振りは、「3週間後」、「2週間後」、「来週」と変化し、愈々、「明日」から「本日の午後1時頃」と変化しました。そして、愈々家族を連れて自宅に入ろうとしました時、驚いた事が起こりました。このご夫妻から、娘と息子に「ご到着おめでとう。これは、お祝いのプレゼントです」との歓迎のご発言とプレゼントが手渡されました。――日本でも、引っ越しの時、このような「セレモニー」があるでしょうか。
 ご夫妻には、近所にありますスーパーマーケット、各種商店、美容院なども、全て案内してくれました。更に、美味しいレストランなどには、特に美味しいメニューを紹介してくれただけではなく、全て招待扱いをしてくれました。2年間のシスコ勤務を終了して、日本に戻りましてから、このご主人は、2回、日本を訪問されましたので、勿論、私が毎回自家用車で箱根や富士山の周辺や横浜市内など案内しました。特に、2回目の訪日の際は、「自分はもう高齢になったので、この2個のスーツケースはあなたのご家族に差しあげたい」と仰って、置いていかれました。それから1年後、この方は亡くなられました。筆者が、仕事から自宅に戻った際、娘から、「パパ、おじいちゃんが、亡くなっちゃった」と告げられたので、私は、当初、私か家内の父親かと勘ぐったのですが、このシスコのおじいちゃんである事が判明し、驚いた事がありました。お陰様で、シスコは、私共家族にとりましては、第2の故郷になりました。

③パスポート不所持事件
 シスコ在住の某日系人記者から素晴らしい内容を伺いました。それは、1962年、世界で初めてヨットで太平洋を横断し、シスコ湾に上陸する事になりましたが、そのヨットマンはパスポートを所持していない事が判明したため、シスコ当局は、まずは、「このヨットマン逮捕ありき」と判断したそうです。この記者は、シスコの当局者に対し、「その判断は、大きなミスで、このヨットマンは、初めて太平洋を横断した方ですから、英雄扱いするのは当然でしょう」と申し入れ、結果は、その通りとなり、シスコ上陸後、このヨットマンは、「海の英雄」と評価されましたのは、ご承知の十通りです。1988年、今度は、日本人のヨットレディーが、パスポートを所持しないでシスコ湾に上陸しますが、これも「逮捕ありきの扱い」との情報が、領事である私の耳に入りましたので、私より、懇意にしていました国務省から派遣されているシスコ市の職員に対し先例を紹介しつつ、「このヨットレディーを、1962年と同様英雄扱いして欲しい」と申し入れましたら、結果は、その通りとなりました。
(ご参考情報:パスポートを所持しなかったケースは、私自身が、ワシントン勤務時代にシアトルで開催された学会に出席しました時に発生しました。同じ米国内のシアトルでの学会でしたので、米国国務省の発行した身分証明書は、勿論携行しましたが、パスポ-トは、携行しませんでした。日本からシアトルの学会に出席した学者達は、「折角、シアトルまで来たのですから、すぐ北にあるバンクーバーを訪問しましょう」と誘われました。パスポートを所持していなかったので、困ったなと思いましたが、念のため、シアトル市の出国係官に「私は学パスポートは、所持していませんが、米国務省発行の身分証明書は所持しています」と釈明しましたら、その係官より、「あなたが中国人でしたら、米国からの出国は認めないが、日本人の外交官ですから出国を例外的に認めます。カナダ国境から戻る時間帯、入国時のカウンターは、出国時と同じカウンターであるここにしてくれれば、出国を認めましょう」と指示され、米国を無事出国出来ました。カナダ側のバンクーバーの国境の係官に対し、私より米国側での出国の係官とのやり取りを紹介しましたら、カナダ側が、例外的に入国を認めると共に、カナダ側国境の出国時とカウンターについて指示が出ましたので、勿論、これらの指示に従いました。私がパスポートを所持せず、国境を越たのは、これ1度だけです。今もって、米国、カナダの国境の係官のご親切は、忘れる事が出来ません)

④シスコにおける日本人や日系米国人の活躍
 シスコでは、日本人や日系米国人が、日米間での経済・学術交流の向上に貢献されておられるのは、当然の事でしたが、特に、日系人による農業方面のご活躍には、感激しました。辛いお仕事の中、様々の「王様」にお会いする事が出来ました。お米、果物(さくらんぼ、いちご、ぶどう)、野菜(アスパラ、キュウリ)などの王様が沢山おられた事でした。

⑤訪問先の由来を知っておく一例
 シスコの領事に着任しましたら、シスコ郊外にあるフレズノの日系人会から招待されました。私から、会場で、「高校時代に学んだ人文地理の教科書中にフレズノと言う町があり、そこには日系人が大活躍されている町であると学びました」と学習した事を含めて挨拶しましたら、会場からは拍手が湧き上がり、大歓迎されました。お陰様で、2年間の在勤中に、6回も招待され、U.C.フレズノ校での講演会に招待されたり、フレズノの日系人社会のイベントに招待されたりと、堪能する事が出来ました。

(5)シカゴ勤務時代
(1)シカゴ周辺には、シカゴ大学を始めとした有名大学が多数ありますと共に工業・農業・商業が盛んな町です。特に、招待されてシカゴ商業取引所を訪問した時でした。その時のガイドさんから私に対し、「城所首席領事、杉原千畝さんをご存知でしょうか」との質問が出ましたので、私からは、「はい、勿論、良く存じ上げております。第2次世界大戦中、リトアニアのカナウス領事部で領事代理として勤務していました当時、ナチス・ドイツの迫害を逃れて来たユダヤ人約6、000人に日本通過ビザを発給し、多くの避難民を救った方である事は、承知しています。
 最初に仕えたN駐ネパール大使が杉原領事代理と同期生であった事、私が在サンクトペテルブルク総領事館の首席領事時代のA総領事が杉原領事代理と同じハルピン学院でロシア語を学んだ事は承知しております」と回答しましたら、その後の話題が大いに盛り上がりました。具体的には、「自分達は、杉原領事代理によるビザ発給により、その後シベリア経由で日本に立ち寄り、米国特にシカゴに移住し、商業関係の発展・向上に貢献しました。それが、現在、シカゴが証券取引所などの規模・活躍がニューヨークに次いで第2位となっている事です」と説明の上、「明日、又、お会いしましょう」と言われ、翌日、「スギハラ通り」を紹介してくれました。シカゴが商業取引所などの活躍が活発である事は、承知しておりましたが、杉原領事代理のビザ発給の成果が、こう言うところまで影響が出ている事は、初耳でした。
 シカゴには、ソ連・東欧諸国からの移住者が、多数おられました。私は、ロシア語会話が出来ましので、必然的にソ連・東欧諸国からの移住者と会話する機会が増えました。特に、バルト3国からの移住者が、多い事にも驚きました。
 シカゴ大学など一流の大学が沢山ある中で、シカゴ大学始め沢山の大学から講演・講義の依頼が入りましたので、勿論、歓んで対応しました。
 シカゴには、素晴らしい施設などが沢山ありました。シカゴ美術館などの大規模な文化施設がありますと共にゴル場の数が多かったです。確かに、郊外のゴルフ場に行きますと、反対側にもゴルフ場の入り口があるなどして、成る程と実感しました。そんな次第で、館内のゴルフ大会で、一度、優勝する事が出来ました。
 シカゴの特徴について、私なりの体験です。新旧の総領事の交替時期が約3ヶ月間と比較的に長期間に及びましたので、私が、いろいろな機会に、総領事代理として挨拶する機会に恵まれました。挨拶の中で、ミスをしては恥ずかしいので、原稿を良く読みながら挨拶しましたら、ある会場での司会者から、「ここは、シカゴですから、原稿は見ないようにして欲しい」と注意されましたので、それ以後は、原稿なしのスピーチとなりました。因みに、私からこの司会者や友人にもその理由を照会しましたら、「特にその理由は、見当たりませんが、原稿を読まない事だけは、シカゴの特徴です」とのみ回答がありました。因みに、オバマ元大統領は、シカゴ出身でしたので、現役の大統領時代を含めて、テレビ報道で見る限り、確かに議会でも原稿を見ないで、スピーチをしておられました。

TOP