英語学習を振り返って(その4)外務省の在外公館勤務で得た諸体験【モンゴル勤務時代編】 筆者:城所卓雄 更新日: 2019年7月16日
筆者は、1969年、外務省に入省し、英国での英語研修を経て、在ネパール大使館に勤務し、1973年、在モンゴル大使館の開設に伴い、同大使館に転勤しました。結果的にはT大学で学生時代に修得した第1外国語のモンゴル語であるモンゴルに3回通算9年間勤務し、第2外国語の英語である米国に3回通算7年間勤務し、第3外国語のロシア語であるロシア(旧ソ連邦を含む)4回通算10年間勤務しました。
これらの在外勤務を通じて得ました諸体験には、一般の方々はまず遭遇しなかったであろう体験がたくさんありました。その一部を紹介したいと思います。
Ⅰ.モンゴル勤務時代 (メルマガ 後半で紹介)
(1973~76年 在モンゴル大使館の二等・三等書記官、1994~97年 大使館の参事官、2009~11年、大使館の大使)
Ⅱ.米国勤務時代 (メルマガ 次回紹介)
(1976~79年 在ワシントンの大使館の二等書記官、1986~88年 在サンフランシスコ(以下、「シスコ」)総領事館の領事、1997~99年 在シカゴ総領事館の首席領事)
Ⅲ.ロシア勤務時代 (メルマガ 次々回紹介)
(1983~84年 在レニングラード(後のサンクトペテルブルク)総領事館の首席領事、1984~86年 在モスクワの大使館の一等書記官、1999~2003年 在モスクワ大使館の参事官、2005~09年 在サンクトペテルブルク総領事館の総領事)
Ⅰ.モンゴル勤務時代~モンゴル勤務時代と最近のモンゴル事情
(1)はじめに
本論に入る前に、まず、モンゴルの官民に対し、心より御礼を申し上げたい事があります。日本が遭遇した自然災害に対する緊急支援です。日本政府は、モンゴルが民主化・市場経済化に移行する時点で様々な苦労に直面していましたので、病院の機材供与案件、電話の地上局の設置案件、学校校舎の建設案件、道路建設案件などを通じてモンゴルの政府・国民を支援してきました。この様な背景のもと、モンゴルの政府・国民は、日本の自然災害に対し、早急かつ心温まる対応をしてくれました。その一例を列挙します。
①1995年、阪神淡路大震災
モンゴル政府は、地震の被災者が寒さに凍えているであろうとのマスコミ報道などを通じて認識の上、緊急閣議決定の上、1月22日、国家非常事態担当相を兼務するP副首相が自ら緊急便に搭乗の上、カシミアの毛布2000枚と手袋500枚を配送してくれました。
筆者は、当時、モンゴル大使館で参事官をしており、モンゴル外務省のHアジア局長と緊密な連携の上、本緊急支援物資について対応しておりました。その当時、東京の外務本省より、「先に到着した他の支援国の航空機は。県知事などにご挨拶しないと本国には戻れないので、空港は、待機中の航空機であふれているので、モンゴルの緊急支援便は、到着したら緊急支援物資を下ろしたら早く離陸して欲しい」とのメッセージが入りました。そのまま、Hアジア局長に伝えました。P副首相やHアジア局長は、空港到着後、緊急支援物資を空港に下ろし、何方にもご挨拶をせず、わずか90分後に、空港を離陸してくれました。
このP副首相とHアジア局長が、その日の遅い晩に、ウランバートル空港(注:当時は、「ボヤントオハー空港」、現在は、「チンギスハーン空港」)に戻られました。当時の空港は、空港の施設には大きな建物は無く、筆者は、外気がマイナス40度前後のところを約1時間程待機しておりましたので、筆者は、P副首相に御礼のご挨拶をしようとしましたところ、余りの寒さで口が開かなくなり、同行のHアジア局長より、「城所参事官は、素晴らしい緊急支援物資を携行して頂き、有り難うございます」と言いたいと助けてもらったことがありました。
何れにしましても、この緊急支援物資が、モンゴル政府による日本に対する支援第1号となった物でした。
②2004年、新潟中越地震
カシミアの毛布520枚
③2011年、東日本大震災
震災当日の3月11日(金)から約2か月間、当時のモンゴルでの対応・出来事は、現在でも鮮明に覚えております。
筆者が、2009年、駐モンゴル大使として着任した当時、日本の海外青年協力隊は、首相へも外務大臣へも挨拶の機会が無かったので、これを首相補佐官とコンタクトし、翌2010年2月、日本の海外青年協力隊が初めてモンゴル首相にご挨拶の機会を頂きました。その2回目が、2011年3月11日(金)の午後3時(注、日本時間午後4時)でした。筆者は、首相とのアポの1時間前に、政府庁舎内の会場に入り、詳細な準備をしていました。そこへ、大使館の担当書記官より携帯電話で連絡が入り、「東日本で大震災が発生した模様、詳細は別途、連絡します」との報告がありました。
まず、日本の海外青年協力隊とシニアボランティアが会場に集合し、E首相が、冒頭の歓迎のご挨拶となりました。この時のE首相のご発言内容は、決して忘れる事は、出来ません。
「ただ今、東日本大震災に関するニュースを見てきました。日本政府からは、モンゴルが民主化・市場経済化に移行しつつあるときから、たくさんの心温まる支援を頂いて参りましたので、先程の東日本大震災に対しては可能な限り、最善を尽くしたい」との内容でした。
翌12日(土)朝9時、Gアジア局長が日本大使館の筆者のところに、前夜の緊急閣議で決定した内容を報告に来てくれました。具体的な内容は、義捐金100万ドル、緊急援助隊の派遣(注:モンゴルとしては、外国に派遣する第1号)、さらに公務員の公務員等が給料の1%を寄付する事も決定しました。震災1年後、あるモンゴル人から、「日本に関係のある方々は、皆さん給料の10~20%分、特に、モンゴル・日本議員連盟のメンバーは、給料の1か月分を支援した」と伺い、驚きと同時に感謝の気持ちがわき上がりました。
某モンゴル学校は、震災1週間後の18日(金)には、卒業生及び在校生から義援金が集まったとして、その式典に筆者(大使)も会場に招待されました。その校長から、「来週、この義援金を携行し、被災地を訪問される」と伺いました。そこで、筆者より、「その義援金を日本のある窓口に送金する方法もあるでしょう」と紹介しましたら、その校長から、「日本に送金すると、必要経費が削除されると共に、被災地への義援金の提供が半年以上遅延するので、現金を携行してほしいのです」との回答があり、この校長の日本事情に明るいことが判明しました。
1週間後の3月25日(金)頃、宮城県N市長は、この校長からの義援金を受け取り、「震災後、初めての現金、日本人からでは無く、モンゴル人から頂きました」と言って涙を流されたそうです。
地震発生から1週間もしない内に、いろいろな方々が、大使館に来られ、義援金を提供してくれました。筆者が大使館にいる時は、もちろん、これらの方々にお会いの上、御礼を申し上げました。特に、感銘を受けたのは、日本語ではなく、トルコ語を学んでいる小学生が義援金を持って大使館に来られましたので、もちろん、筆者(大使)が対応してあげました。
同じく、震災発生の1週間後、ある仕事の件で、以前から決まっていました北のダルハン市を訪問しました。そうしましたら、日本大使がダルハン市を訪問することが知れ渡っていたようで、急遽、ダルハン市内の孤児院から私にお声がかかりましたので、その孤児院を訪問しました。そうしましたら、その院長から、いきなり、「孤児達が、先の震災の規模に驚き、義援金を集めるため、音楽会を開催しましたので、これがその際集めた義援金です」と言われ、その義援金を手渡されました。2ヶ月後、筆者は再度、この孤児院を訪問し、私的な御礼の品々を段ボールで数ケースを手配しました。
これらの義援金を試算・総計したところ、約1億円になりました。当時のモンゴルの人口・GDP比から換算しますと、約3千億円相当になりました。
さらに、モンゴル側からの支援物資は、丁度1年後、再度、東京のモンゴル大使館経由にて被災地に配られました。
④2017年、熊本地震
義援金
⑤2018年、中国地方豪雨被害
アジア地域からは、モンゴルを始め、韓国、シンガポール、タイ、中国、ベトナム、マレーシア、台湾からも義援金を寄付していました。
(2)モンゴル人の特徴
駐モンゴル大使を退官して既に7年半が経ちましたが、この間、36回出張するチャンスに恵まれ、特に、モンゴル人の特徴を再確認・認識する事が出来ました。
①記憶力世界第1位
・日本のマスコミでは報じられていませんが、モンゴルのマスコミでは、よく報じられています。(注:モンゴル人は、参加種目の5割程度は、第1位)、(注:日本人は、参加者100人の中で、第99~100位)
・この記憶力の良さについて、モンゴル側の教育省や科学アカデミーの幹部などに照会しても確固たる回答は得られていませんが、共通な回答は、今までの遊牧生活では、紙が無く、全て口頭によるメッセージによる伝達であったそうです。モンゴルからモスクワ方面へのメッセージの伝達も、かつては、馬に乗り、口頭によったそうです。これは、日常生活でも確認出来る現象。例えば、モンゴル人は、携帯電話の番号は、100人分位は、全て暗記しています。
②外国語習得能力が高い
・モンゴル人が2~3カ国語修得するのは、当然。(日本人は、英語習得にも苦労) かつては、第1外国語は。ロシア語でしたが、モンゴルの民主化・市場経済化にともない第1外国語は英語となりました。第2外国語として、日本語、韓国語、中国語、ロシア語、ドイツ語、フランス語、トルコ語などがあります。
③女性の社会進出の上位国
・アジア諸国の中で、世界で10位以内は、7位が、ニュージーランド、8位が、フィリピン、世界で40~50位は、モンゴル、世界で100以下は、103位が、中国、110位が、日本、115位が、韓国。
具体的には、閣僚クラス、大学での学長等の幹部や教授クラスは半数以上が女性、小学校の校長及び教員は、95%が女性、中学校及び高校の校長及び教員の85%が女性で占められています。
④一人ゲームが強い
・相撲、柔道、剣道、空手、サンボ、レスリング、ボクシング、マラソン
⑤視力が高い
・世界第2位 (注:第1位は、マサイ族)
⑥モンゴル人は、日本(人)への恩を忘れない
・上記で触れました通り、モンゴル人の日本(人)に対す自然災害に対する支援に加え、筆者には次のような体験もあります。
・筆者が、大使時代の2010年9月、大変な事が起こりました。某日本人がウランバートル市内のホテルをチェックアウトする際、日本語のメモを残しておいて出かけたそうです。そのメモ書きは、日本語でしたので、急遽、大使館の領事部に廻されました。大使館の次席と領事部の担当官が筆者のところ来て、「この置き手紙によりますと、カラコルムに出かけ、2週間後に自殺するので、2週間後に遺体を捜して欲しい」と言う内容なので、「2週間後に、カラコルム周辺で遺体を探すことでよろしいでしょうか」との照会がありました。筆者からは、「そうではなく、今すぐウランバートル郊外で探すように」と指示を出しました。
そうしましたら、警察から、「ウランバートル郊外で日本人らしき人が倒れているのが見つかった。」との連絡が大使館に入ったので、筆者より、警察関係に対し、「大至急、病院に搬送して欲しい」と申し入れをしました。第3病院に緊急搬送されたとの連絡も入りました。
結果的には、数日の入院で生命は回復しました。それから1ヶ月後、警察庁の長官始め、当日の救急車の運転手、第3病院の担当を含め、合計12名を大使公邸に招待し、夕食を差し上げました。筆者より、夕食会の被招待者に対し、一連の迅速かつ親切な対応により、日本人旅行者の命が救われたので、御礼・感謝申し上げたいと述べたところ、非招待者より、驚くベキ発言があり、感銘しました。その発言のポイントは、次の通りでした。
○医者の中に、日本留学の経験者がおられました。
○身内に日本の医科大学に留学の経験者や留学中の者がおられる。これらの方方から
日本からの素晴らしいお土産(例えば、こけし、お菓子、お饅頭など)をもらっているので、自分達は、日本大好き人間です。
○今回の自殺願望の旅行者が、日本人でなければ、私達は、これ程まで、真剣・慎重・熱心には対応しなかったでしょう。
これらの発言から理解できたのは、日本留学をきっかけに、日本・モンゴル関係は素晴らしい関係にある事を認識できたことです。
(2) モンゴル人の日本語・日本文化への理解
①モンゴル人の日本語教育の流れ
・社会主義時代は、モンゴル政府・共産党が、モンゴル人の学生を、旧ソ連時代にモスクワかレニングラードの学校に派遣し、そこで、日本語を習得させておりました。これに大きな変化が起きましたのが、1974年、日本・モンゴル間で文化取極の署名がきっかけとなりました。
1973年、モンゴルの首都ウランバートル市内のウランバートル・ホテル内に日本大使館が開設されました。幸いなことに、筆者が日本大使館の文化担当も兼ねておりましたので、約8ヶ月の交渉を経て、1974年9月、署名が実現しました。この結果、署名直後の9月、モンゴル人のT先生がモンゴル語の教師として、T大学に赴任、翌1975年、T大学のH先鋭が日本語教師としてモンゴル国立大学に着任すると同時に、日本人留学生の第1号が到着、翌1976年、モンゴル人の研究者が日本に留学、1980年より、モンゴル人の学生が日本に留学を開始されました。
・上記のような背景もあり、かつては、毎年1~3名程度の日本への留学生が急増し始めた結果を、もう一度振り返り、記録を次の通り、メモ書きにします。
1975年 モンゴル国立大学に日本語コース開設(副専攻)
1990年、中学校・高校に第2外国語として、日本語を採用
1990年、モンゴル国立大学に日本語学科開設(主専攻に昇格)
1992年 私立大学に日本語学科・コースの開設
1993年 日本語教師会の発足
1995年 モンゴル帰国留学生の会(JUGAMO会)の創設
2001年 日本語能力試験制度の導入
2009年 (株)ライセンスアカデミー・大学新聞社、ウランバートルで留学フェア開始
2012年 (株)ライセンスアカデミー・大学新聞社、モンゴル事務所開設
2014年 友ランゲージアカデミー・ウランバートル校の開校
2017年 (株)ライセンスアカデミー・大学新聞社の白田代表取締役にモンゴル大統領より北極星勲章授与
・モンゴル語は、非漢字圏ですが、日本語の文法に大変類似している事もあり、モンゴル人の日本語のレベルは、日本に留学している外国人の中では、そのレベルは、第1位と言われています。さらに、日本の技術・文化などへの理解度・信頼度も高いので、モンゴルから日本への留学生数は、遂に、2.5千人の大台を越えました。モンゴルの総人口は、日本人の40分の1ですから、この2.5千人は、100千人に相当すると思います。モンゴルから日本への留学生の派遣は、1976年から開始されて、既に43年目を迎えます。この結果、日本からの帰国留学生は、閣僚、国家大会議員(国会議員)大学や高専の教授は勿論、学長・副学長・学部長、高校・中学校・小学校などの校長始め教員、企業経営者などを多数輩出しています。特に、東京にありますモンゴル大使館では、大使以下全スタッフが、日本語・日本文化などに理解し、会話も上手です。
・モンゴルの子供達は、算盤、将棋、書道などにも大変興味・関心があります。女性徒は、お茶にも興味・関心があります。
電車やバス内では、若者が老人に座席を譲るのは、当然な光景です。(注:日本では見られなくなっている現象です)
・モンゴルが民主化・市場経済化に移行した後、モンゴルのレストラン事情にも変化が見られる様になりました。かつては、モンゴル料理を中心に加えて旧ソ連式料理でしたのが、登場順に、韓国料理、中国料理、日本料理、イタリア料理、フランス料理、インド料理、ベトナム料理、フィリピン料理、特に、最近では、米国料理も見受けられます。ここ数年の現象ですが、ラーメン屋が登場し、徒歩数分で新たなラーメン屋に出会うようになりました。
・日本料理では、寿司、刺身、天麩羅に加え、回転寿司が人気物です。筆者が大使時代に新装開店しました日本料理屋に入り、驚いた事がありました。それは、筆者がこの料理店の店長に対し、「あなたは、どこで日本料理を修業して来ましたか」と質問しましたら、この店長からは、「米国のデンバー市の日系米国人からです」との回答があったからです。納得出来ました点は、次の2点でした。
まず第1点は、モンゴル語と米国インディアン語では、共通語が多く、ウランバートル市とデンバー市は姉妹都市協定を締結しています。第2点は、筆者は、米国のシスコの総領事館の領事時代で、コロラド州のデンバー市に出張しました際、かつて日系米国人が、第2次世界大戦中に米国で敵性外国人と見なされ、デンバーの強制収容所に収容され、解放後、そのままでデンバーに残った日系米国人にお会し、日系のレストランなどを経営しておられた方にも出会いましたので、納得できる内容でした。
・最後に、モンゴルで見える韓国の台頭です。モンゴルと韓国との外交関係の樹立は、1990年と比較的遅かったのですが、両国の関係は、その後どんどん進展して行きました。1995年韓国系のレストランがウランバートル市内で開業し、その後も引き続き韓国系のホテルやコンビニ・スーパーマーケットやカラオケ屋も開業しました。そんな次第もあり、モンゴルのレストランに入りましても、まず、キムチが登場するようになりました。モンゴル人は、カラオケの語源を、日本語では無く、韓国語と誤解されています。最後に、ウランバートル市内のコーヒーショップの90%が韓国系と言われる程台頭して来ています。