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英語学習を振り返って(その3) 筆者:城所卓雄

 1969年外務省に入省して、2011年外務省を退職しました。約43年間の外交官人生でしたが、振り返って筆者なりの外交官体験を、次の通り記載してみます。

(1)外務省創設100周年記念

 1969年4月、外務省に入省し、3ヶ月後の7月には、外務省創設100周年記念式典がありました。この式典が実施される迄、まさか、100周年記念日に遭遇するとは、思っても見ませんでした。本年(2019年)は、150周年記念日となります。

(2)素晴らしい上司・同僚・部下に恵まれた事

 外務省に入省する以前は、筆者が卒業しましたT大卒業生の先輩数名だけを存知あげておりました。しかし、外務省入省後、筆者の将来を配慮して、筆者を指導・教育して下さいました諸先輩のケースの一部を発生順に紹介しましょう。

・外務省に入省し、最初の配置先は、アジア局中国課でした。そこのK上司より、「このニューヨーク・タイムズの記事を訳して下さい」との指示があり、筆者は、2日後に、その訳文を提出しました。K上司は、筆者の訳文を30秒程でチェックし、赤字で訂正の上、「これを直ぐ書き直し、回覧先の課長や局長から、「この訳文は、どなたが書きましたか」との照会があったら、「私が書きました」と回答するように」との指示がありました。このK上司から学んだ事は、「外国語の新聞などの翻訳は、最低でも30分以内に行うべき事。筆者は、英語力が不十分でしたので、2日間を要して翻訳が大幅に遅れても、K上司から、非難の発言は一言も無く、英語力をもっと高めるようにとの趣旨と理解しましたので、「素晴らしい上司に巡り会えて感謝したい」と言う認識が出来た事でした。その後、43年間の外交官体験から申しますと、
○翻訳は、10分以内に行うべき事、
○会議などの報告書は、半日以内、遅くとも翌日までに作成すべき事、
○国際会議や任国・任地の幹部などとのアポでは、少なくとも30分前にその場に集合・待機しているべき事(注:交通渋滞などを理由にする遅刻は絶対許せない事、
などが、筆者の哲学となりました。

・1回目の在モンゴル大使館で3年間の勤務が終了する前に、当時のT大使より、「次のポストは、城所君の将来の事を考えて、世界の外交の本場である米国のワシントンの大使館で勤務するように」とのアドバイスがあり、これが実現し、ワシントンの大使館で総務班に所属し、政務班も兼任しました。筆者の担当は、国務省やホワイトハウスでした。上司であるF参事官より、「城所君は、情報入手が早くしかも正確で大変参考になるので、在外公館勤務向きですね」と言われ、結局、ワシントンの大使館にも3年間勤務しました。更に、シスコ総領事館に2年間、シカゴ総領事館にも2年間勤務しましたので、米国勤務は通算7年間となりました。結果的には、合計43年間の外務省勤務の内、28年間は、在外公館勤務となり、本省勤務は僅か14年間となりました。

・本省の2回目の勤務は、また、アジア局中国課でした。1回目は、中国の政務担当で、当然中国語の修得を強いられました。2回目は、中国の経済担当でした。この時のA上司から、「城所君、次は広報関係の部署で、見識を広めて欲しい」とのアドバイスがあり、創設されて2年目の広報文化局の外国プレス室に配属されました。日本に滞在している外国人記者に対するプレス対応がメインでした。この業務を通じて理解出来ました事は、所謂マスコミ対応でした。これらの勤務を通じて得ました諸点は、その後、在外公館である大使館や総領事館で、講演・講義を依頼される際、本来の講演・講義に入る前の冒頭の挨拶の際のプレゼンテーションや国際会議での冒頭の挨拶の際のプレゼンテーションがとても重要な事である事も、認識出来ました。勿論、マスコミ対策にも成果がありました。

・本省の外国プレス室の次のポストは、米国のワシントンの大使館でご一緒しましたT書記官が、本省に戻られ、欧州局ソ連課(注:現在、ロシア課)課長をされておられ、T課長が、1983年、筆者を次のレニングラード(注:現在のサンクトペテルブルク)総領事館の首席領事(注:総領事の次のポスト)に抜擢して下さいました。まだ、37才でした。大学時代に第3外国語としてロシア語を学びましたが、ロシア事情には疎かったので、A総領事より、1年半の勤務中に徹底的にロシア事情についてご教授を賜り、自分なりにロシア事情についてマスターした後、モスクワの大使館に一等書記官として転勤しました。その時の上司が、T公使となり、更に、日本・ロシア関係についての業務に専念させられました。レニングラード総領事館の首席領事として1年半、モスクワの大使館の2年間の計3年半の勤務を通じて、結果的には、ロシア事情に明るい専門家になる事が出来ました。

・このT公使より、「城所書記官、次は米国内にある歴史のある総領事館に勤務するように」とのアドバイスを頂き、シスコ総領事館の領事となりました。当時のY総領事より、「シスコ総領事館は、日本で最初の在外公館である事」を教えて下さり、感銘を受けました。その後、いろいろ調査してみましたら、シスコは米国の西海岸として、日本からの表玄関、船舶による日本人の来訪者は、C.Brooksが主に受け入れを担当していたようです。そんな事もあり、1867年(慶応3年)、江戸幕府から領事に任命されました。更に、明治政府からは、1870年(明治3年)領事に任命されました。そんな次第で、ワシントンの大使館(注:当時は、「公使館」より1ヶ月程前に、シスコに領事館が開設されていた事でした。その意味では、歴史的には大変名誉のある総領事館に勤務する事が出来、光栄な事でした。シスコでは。日系米人のみならず、多数の米国人から日本を支援して頂きましたので、シスコ勤務は、外交官人生にとり、たいへんプラスとなる任地でした。

・シスコ総領事館時代に、本省の人事課よりY総領事に連絡が入り、「シスコ領事の次のポストは、経済協力局無償資金協力課」との内々の通報がありました。筆者は、この内示を伺いましたが、経済協力関して何らの知識も無いので、Y総領事には、「本省の人事課長には受け入れられないと回答して欲しい旨」を依頼しました。Y総領事と人事課長との電話でのやり取りを側で聴いておりますと、Y総領事が、少しずつ人事課長より説得されてしまい、最終的には、本省に戻り、無償資金協力課の課長補佐として着任しました。部下には約25名程のスタッフがおりながら、その課長補佐は、経済協力用語も全く知らない状況下にありましたが、約3ヶ月間の勤務を通じて、経済協力の知識も充分となり、無事、課長補佐を務め上げる事が出来ました。その間に、モンゴルに民主化・市場経済化の胎動が始まり、結果的には、課長補佐の仕事が、対モンゴルのODAの開始となる架け橋となる事が出来ました。

・今まで、素晴らしい上司に巡り会えて、私の将来を見据えて、次のポストの提案があり、そのポストに就く事が出来ました。筆者自身が、次のポストは、こうしたいとは、一度も申し出た事がありませんでしたが、結果的には、筆者の能力・知識の幅を支援してくれた事になりました。筆者が無償資金協力課の課長補佐になりました時は、既に40才を越えておりましたので、この頃から、「部下達の教育並びに次のポストについて配慮すべきである」と言う哲学を持つようになりました。

(3)外国語の学習

 筆者は、大学生時代に英語の教員免許を取得済みでしたが、英国での英語研修やネパールなどのアジア勤務や米国勤務を通じて、日本の中学校・高校・大学における英語教育に疑問を持ち始めました。
・英国研修中に、様々な英語に直面しました。一例を挙げましょう。英国人とロンドン市内での会話の中で、日本の事を話題にしていないのに、「オフトン」と言う表現が良く聞こえたのです。これは、「often」は、本来「t」の「t」の音が入るべきではないと習ったのに、この「t」が入っていたのですね。同じような例は、ヨークシャー州にありますリーズ大学で英語研修を始めた時、ブリティッシュ・カウンシルの方が、外国人留学生にリーズ市内の町案内をしてくれている時でした。バス停にてバスを待っている時、現地の方言を話す方から、「ブス カムズ」と言われましたので、筆者はどんなブスが来るのかと思いましたら、ブスではなく、バスが来ました。そこで、お金を意味する「money」の発音を確認しましたら、ムニーでしたので、これも驚きでした。

 次のケースは、12月にロンドン市内でタクシーに乗車した時の事でした。筆者よりタクシーの運転手に、「料金はいくらですか」と照会しましたら、運転手より、「アイティーペンス」との回答がありました、筆者は、この料金を把握出来ませんでしたので、仕方なく1ポンド札を差し上げますと運転手より、「クリスマスであるので、多額のチップをありがとう」との御礼の言葉でした。「アイテイ」とは、「エイティーで、80を意味する事」が分かりました。後ほど調べましたら、これは、ロンドン市内のCockney地方の方言であった事が判明しました。
 英国内のみならず、外務省の勤務先や出張先では、アジア地域、米国、アフリカ稚気などでも様々な英語方言に遭遇しました、日本の中学校・高校・大学では、英語の方言や発音の違いなどについて、一度も教えてもらった事がありませんでした。

・ヨークシャー州のリーズ大学での研修入る前は、英国南西部にありますエクスター市で約3週間、英国人の家にホームステイしました。1か月だけ英語を学んで来ていたフランス人、既に3回程短期で英語研修に来ていましたUAE(アラブ首長国連邦)と筆者の3名でした。
 毎週土曜日、このホストファミリーが夕食に招待してくれて、英語学習などについて意見交換をしました。この3名の中で、英語レベルの1番は、英語を1か月しか学んでいないフランス人、2番は、UAE人、3位は、中学・高校・大学で10年以上英語を学んだ筆者でした。ヨーロッパ人の外国語習得・学習能力の高さに感銘を受けました。

・英国での英語研修を通して、筆者はイギリス英語を話しておりましたが、その後、米国勤務が7年間にも及んだため、筆者の英語は、いつの間にかアメリカ英語になっていました。

・外国語学習について、筆者の体験から強調したい点を次の通り列挙します。
① 1976~79年の3年間のワシントンの大使館勤務時の通訳2名の実力でした。お二人共、AFSにより高校時代1年間米国に留学しておられた体験者ですのにも拘わらず、日々英語学習に熱心に取り組んでおられる事でした。お二人の筆記ノートを参考までに見せてもらい、簡単な単語でも、きちっとメモを取られておられる事でした。更に、驚いた事が、大使館内でのクリスマスパーティーで起きました。各部別で、出し物を披露しました。それに加え、N書記官とU書記官のお二人が、当時のT大使の物真似をされたのです。歩き方、話し方、特にお声がそっくりなのです。そこで気づいた事は、「良き通訳者とは、物真似が上手い」との認識を持ちました。自分中心の音痴では、通訳は不向きであろうと認識した次第です。

② 在外公館に勤務中に発見しました事は、大使はじめ総領事クラスの方々でも、日々外交関係の書籍、現地語の学習に取り組んでおられる事でした。1973年、在モンゴル大使館に勤務していた時の実例です。当時のモンゴルは、社会主義の時代でしたので、第1外国語はロシアで、外交官同士の会話は、当然ロシアでした。着任早々のT大使は、ロシア語が専門でしたが、20数年間ロシア語を使用していなかったとかで、ロシア語会話には、若干の困難さを伴っておられました。ところが、大使として着任後毎朝6時から8時までの独習で、僅か1ヶ月で、ロシア語の語学・会話力を回復されておられました。

③ 筆者が、大学生を対象としました外交官体験の講演会では、例えば、在ロシア大使館勤務を通じて得た結論は、ロシアについて正確に学習するためには、欧州ではドイツ、フィンランド、トルコなどの近隣諸国との関係、勿論、旧ソ連邦の共和国、例えば、ウクライナ、ウズベキスタン、カザフスタンやバルト3国などとの関係を理解すべきと紹介しました。在モンゴル大使館勤務を通じた結論は、中国及びロシアの両隣国並びに朝鮮半島について理解する事を中心に紹介しました。しかし、最近ではモンゴルを正確に
知るためには、所謂第3の隣国と言われるカナダ、英国、スイス、オーストラリア、チリなどについて良く理解すべきと強調しております。これは、一つの国をより正確に理解するためには、近隣諸国の歴史・動向を理解すべきとの結論となりました。そんな時、昨年、日本民間外交推進協会主催の講演会に出席し、大変感動した場面がありました。その講師は、在日米国大使館のH前首席公使でした。日本語による講演でした。H前首席公使から、「日本語並びに日本について正確に知るためには、日本語のみならず、周辺国である中国(語)と韓国(語)を理解すべきである」とのご紹介があり、私が紹介していた内容でしたので、感銘を受けました。

(4)講演・講義等の体験
筆者は、大学時代に英語の教員免許お取得しておりましたが、外務省に勤務時代並びに、外務省を退職後に様々な講演・講義の機会に恵まれましたが、教員も免許所得がこれ程までに役に立つとは、大学生時代には、想像もしてはおりませんでした。

①外務省の本省勤務時代
・外務本省時代は、国内では、大学が中心で約30大学、高校や県レベルでは、約10カ所で合計約40回の講演・講義でした。テーマは、経済協力、グローバル化、日本・モンゴル関係が中心でした。

②在外公館勤務時代
・在外勤務時代の大学での講義第1号は、ワシントンの大使館の勤務時代に、まず、インディアナ大学から声がかかりました。米国内は、更に、ジョージタウン大学、コロラド大学、シアトル大学等からも声がかかりました。これ以外にも、国務省から、モンゴルを、テーマにしましたロシア・モンゴル、中国・モンゴル、日本・モンゴル等について講義をしました。
米国では、シスコ総領事館の領事時代は、スタンフォード大学、UC・バークレイ校を始め、中学校・高校からも声がかかりました。シカゴ総領事館の首席領事時代は、シカゴ大学、イニノイ大学やミネソタ大学からも声がかかりました。米国では、合計25大学、高校・中学校では合計約20校になりました。
・ロシアでは、サンクトペテルブルク総領事時代に、素晴らしい事がありました。総領事として着任早々、サンクトペテルブルク国立大学から講演を頼まれました。講演会場には、教授や職員が中心で約30名、これに加え学生が約20名で計約50程でした。この講義がきっかけとなり、サンクトペテルブルク国立大学では毎月1回で2年間、国際関係をテーマにした講義をしました。そして、講義終了に際し、教授の称号を頂きました。更に、サンクトペテルブルク国立技術経済大学で数回講義をしましたので、総領事の任期が終了する前に、名誉教授の称号を頂きました。

・モンゴルでは、3回勤務をしていましたが、2回目の参事官時代と3回目の大使時代に多数の講義・講演依頼が参りました。講演・講義内容は、日本の経済協力から、日本・モンゴル関係などでした。モンゴルで講演・講義しましたは、大学数は7大学、小学校・中学校・高等学校数は、10校となりました。モンゴル国立大学からは、参事官職の離任を前にした1997年名誉経済額博士、大使職を終了する2011年名誉外交学博士の称号を、それぞれ授与されました。

③外務省退官後
・大学、研究所、専門学校からの講演・講義が入り始めました。講演・講義のテーマは、外交情勢、具体的には、モンゴル情勢、ロシア情勢、中国情勢、米国情勢、ASEAN情勢、国家公務員の役割、最近の留学情勢などと拡大しました。
・特に、モンゴルの大学では、様々の講演・講義をして参りました事、様々な支援をして参りましたので、モンゴル国立医科大学からは、客員教授、同国立科学技術大学より、顧問巨樹、同教育大学より、名誉教授の称号をそれぞれ授与されました。

(ライセンスアカデミー・大学新聞社 城所卓雄)

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