視線はどのあたりか(「ぼうず通信」より) 更新日: 2017年11月20日
ラフカディオ・ハーンが
日本に来て初めて富士山を見たときの文章を読んだことがあります。
そこにはこんなことが書いてあったように記憶しています。
汽船に乗って明け方駿河湾沖にさしかかった。
富士山が見えるはずだと船客が船のデッキに出て目を凝らしているが何も見えない。
見えるのは灰色のもやばかり。
その様子を見ていた船員が叫ぶ。
「お客さん、そんなところじゃない。もっとずっと上を見て」
そこでずっと視線を上げて見るけども何も見えない。
見えたのはやはり灰色のもやだけ。するとまた船員が叫ぶ。
「ああ、お客さん、そんなところじゃない。もっと高く、もっと高く目を上げて」
そこで思い切り目を高く、首骨がカキンというほど頭をもたげてみると
思いもよらぬ高さのところに富士の頂がある。
そこには朝陽を浴びて雲海の上にそびえる富士山が見えた。
この文章を時々思い出すことがあります。
自分がこの辺りと思っている視線が実は対象をしっかりとらえていない。
見えているのは灰色のもやだけ。
これは高いところに限ったことではありません。自分の足元も同様です。
その生徒がつまずいている小さな石がなかなか目に入らない。
つまずいている石が見えなければ、動けない(動かない)生徒を見て、
もやもやを感じてしまう。
そのもやもやを象徴する言葉が「怠惰」かもしれません。
今年度からベーシックの授業*に入った育て上げネットの支援員さんが、
基礎学習でつまずいている生徒一人一人と面談を行い、
そのつまずきのもとになっている小さな石を丁寧に探し当ててくれました。
「できない。やらない。そこには必ず理由がある」
その面談を通して感じた支援員さんの率直な感想です。
生徒を金縛りにしている目に見えない小さな石が必ずあります。
まずは、その石の存在に気づくこと、
そして個別に異なる小さな石を取り除く方法を
オーダーメイドで実践することです。
小さな石をどけたとたんスタスタと歩き出す生徒が出てくることを期待したいと思います。
この考え方は次年度から始まる自立活動の中核となるものです。
そしてこの考えを実践し、
私を勇気づけてくれるある先生の感想文を再度掲載します。
全てを一緒にやらずとも要所、要所でつまずいている石をどければ、
生徒は川の流れに逆らわず本流に合流し、
すんなりと流れていくことが実体験できた。
生徒の力は計り知れない。
限界を決めているのは結局、教員側なんだと思う。
生徒がつまずいている石を本人に気付かれずにどける方法を
更に研究してゆきたいと感じた。
*社会生活に必要な基礎基本を身につける学習。
つまずきを自らの力で発見・克服できるようにする学校独自の学校設定科目。