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「人をつくる教育を考える―江戸時代の事例から(その10)」筆者・内藤徹雄

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先進的教育を実践した日田の咸宜園

近年、集中豪雨による災害報道でしばしば登場するので、
大分県日田(ひた)をご存知の方も多いと思います。
地元の人々が「天領日田」と称するように、
江戸時代には九州各地の幕府直轄領17万石を支配する、
西国郡代が置かれていた所です。
日田では京大坂を手本にした町人文化が繁栄し、
現在も小京都と呼ばれるほど、
往時の歴史的な街並みや伝統文化が受け継がれています。

日田はまた、豪商出身の儒学者、
広瀬淡窓(1782~1856)が開いた私塾咸宜(かんぎ)園でも
名が知られています。
咸宜園は1817年に開設されましたが、
今も建物の一部が国の伝統的建造物群保存地区に指定されている、
日田の中心街から徒歩5、6分のところに残されています。

咸宜とは、中国の詩経にある言葉で
「咸(ことごと)く宜(よろ)し」(すべてのことがよろしい)
という意味で、この名称には塾生一人ひとりの
個性や意志を尊重しようとする淡窓の思いが込められています。
咸宜園の教育方針は身分制度の厳格であった江戸時代にあって、
極めて先進的なものでした。
その一つは「三奪の法」といい、入塾に際して、
身分・年齢・学力で差別しない平等を旨とするものでした。
身分にかかわりなく塾生を受け入れたため、
武士の他、町人、農民も多く、女性も学んでいたといいます。

また、門人の学力を客観的に評価する「月旦評」という制度を設けて、
実力主義に徹した教育を行っていました。
これは成績によって最下位の級外から最上位の九級に
塾生を格付けし一覧表にしたもので、
毎月の試験の結果で学力を評価したものです。
さらに、学力だけでなく人間性や社会性を鍛えるため、
塾生たちに会計、礼儀指導、清掃など何らかの職務を受け持たせる、
「職任」という規則を定めていました。

極めつけは、塾生をときどきリフレッシュさせる目的で、
一日ないし二日、講義や自習の一切を止めて、
学問から解放する「放学」も行われていました。
こうした機会に、塾生たちは野山や渓流で
十分に英気を養ったといいます。

咸宜園は淡窓の死後も続き、1897(明治30)年の閉塾までに
全国から4千6百名もの塾生が集まり研鑽に励んだといいます。
塾生には郷里に帰り庶民の教育に尽力した人材を
多く輩出しましたが、歴史に名を遺した塾生には、
蘭学者の高野長英や明治維新の功労者大村益次郎、
第23代内閣総理大臣清浦奎吾、幕末の写真家上野彦馬などがいます。

【プロフィール】
1944年生まれ。東京外国語大学卒業。
都市銀行で20年あまり国際金融業務に携わる。
その後、銀行系シンクタンクのエコノミストを経て、
名古屋文理大学教授、共栄大学教授・副学長、
神奈川大学客員教授を歴任。
専門は国際経済、国際金融。
現在、学校法人中央学院常務理事、共栄大学名誉教授、
松実教育総合研究所理事。

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