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「人をつくる教育を考える―江戸時代の事例から(その9)」筆者・内藤徹雄

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有為の人材を輩出した緒方洪庵の適塾

30年余り前、筆者が大阪に勤務していたとき、
オフィスの近くに、
周囲を高層ビルに囲まれた白壁の家屋がありました。
解体修理が終わり一般公開された直後の適塾でした。
適塾は、医者で蘭学者でもあった緒方洪庵(1810~63)が、
1838年に大坂船場に開設した私塾です。
適塾という名は洪庵の号、適々斎から名付けられたものです。

洪庵は備中(岡山県)足守藩の生まれで、
大坂や江戸、長崎で蘭学や医学を学び蘭方医になりました。
医師としての輝かしい業績には、
天然痘の予防接種の普及やコレラ治療の指導などが挙げられます。
しかし、彼の真骨頂は教育面にあり、
適塾では身分にかかわりなく門戸を広く開放し、
青雲の志を抱いた多くの若者が全国から訪れました。
福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介、佐野常民、
長与専斎、高松凌雲など、
この小さな学舎から巣立った青年たちが、
幕末から明治にかけての激動の時代に日本をリードし、
またその近代化を支えました。

福沢諭吉の「福翁自伝」によれば、
適塾では塾生は第1等から第9等まで
実力によってクラス分けされ、
成績で進級するシステムがとられていました。
塾生の勉強は猛烈で、塾頭になった諭吉は、
「凡そ勉強については、このうえ仕様もないほど打ち込んだ」
と言っています。
諭吉は昼夜の区別なく勉強したため、
布団を敷いて寝たことがなく、枕がなかったそうです。
オランダ語をある程度理解するようになると、
原書の会読(かいどく)に加わり、
質疑応答や議論が中心の勉強方法がとられました。
自らの頭で考えて答えを見いだし、
真の実力を養うことが目的でした。
こうした中で身分制度を超えた実力主義が貫かれ、
談論風発かつ自由闊達な気風が育まれました。

現在残っている塾生の「姓名録」には、
全国各地から入門した630余名の門弟の名前が記されています。
洪庵は幕末の1862年、
幕府に乞われて奥医師兼西洋医学所頭取になりますが、
惜しいことに翌年亡くなりました。
適塾の建物は1964年、
蘭学塾では唯一現存の建物として、
重要文化財に指定されています。

【プロフィール】
1944年生まれ。東京外国語大学卒業。
都市銀行で20年あまり国際金融業務に携わる。
その後、銀行系シンクタンクのエコノミストを経て、
名古屋文理大学教授、共栄大学教授・副学長、
神奈川大学客員教授を歴任。
専門は国際経済、国際金融。
現在、学校法人中央学院常務理事、共栄大学名誉教授、
松実教育総合研究所理事。

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