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「人をつくる教育を考える―江戸時代の事例から(その7)」筆者・内藤徹雄

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東京都内で、江戸時代に思いが馳せられ、最も気に入っている場所の一つが、湯島聖堂の光景です。
JRお茶ノ水駅東端にある聖橋から眺められます。
眼下に神田川が流れ、その切り立った崖の上には、高い築地塀に囲まれた緑の瓦屋根の聖堂が木立の間に見え隠れします。

湯島聖堂の地は、江戸時代には幕府の昌平坂学問所、通称昌平黌と呼ばれた学舎があったところです。
五代将軍徳川綱吉が儒学振興のため、上野にあった林家の家塾を湯島の地に移し、聖堂を創建しました。
その後およそ100年を経て、老中松平定信が朱子学を正統な学問として奨励し(寛政異学の禁)、寛政9年(1797)湯島の林家家塾を幕府の直轄下に置いて、「昌平坂学問所」(昌平黌)に改称しました。

泰平の世が長く続き、行政事務が重要になると、世襲による弊害を排した有能な役人の登用が求められるようになりました。
役人の選抜に朱子学から出題する試験制度が採用されたため、旗本、御家人の子弟はこぞって朱子学を学び、この影響は諸藩の藩校にも及びました。

昌平黌では幕臣の子弟のみならず、諸藩の藩士や郷士、浪人なども受け入れていました。
幕臣では、岩瀬忠震(外国奉行)、永井尚志(外国奉行、若年寄)、栗本鋤雲(外国奉行、勘定奉行)、江川太郎左衛門(韮山代官)など。
また、諸藩士からは、渡辺崋山(三河田原)、秋月悌次郎(会津)、清川八郎(庄内郷士)、さらに、高杉晋作(長州)も名簿に名を連ねています。

昌平黌で学び重職に就いた幕臣の中から、前述のように幕末に活躍した開明的な人材が多く輩出しました。
しかし、世襲の譜代大名から任命された幕府首脳の老中らは先例主義を墨守する保守的な傾向が強く、有能な官僚の意見を十分に活用できなかったきらいがあります。
こうしたことが時勢に遅れ、幕府の瓦解を早めた要因の一つになったのでしょう。
世襲の為政者がそれを支える有能な官僚を十分に活用できない事例は、いつの時代にもあるものです。

明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管となり、ほどなく廃止となりました。
湯島聖堂は大正12年(1973)関東大震災によってそのほとんどが焼失しましたが、昭和10年(1935)鉄筋コンクリート造りで再建されました。
聖堂では、現在も漢文入門や論語素読、孟子講義等、数多くの儒学関連の文化講座が開催されて、昌平黌の伝統を今に伝えています。

【プロフィール】
1944年 福井県生まれ。
東京外国語大学スペイン語科(国際関係課程)卒業。
太陽神戸銀行、さくら銀行(現、三井住友銀行)で20年あまり国際金融業務に携わる。
その後、さくら総合研究所(現、日本総合研究所)エコノミストを経て、名古屋文理大学教授、共栄大学教授・副学長、神奈川大学客員教授を歴任。
専門は国際経済、国際金融。
現在、学校法人中央学院常務理事、共栄大学名誉教授、松実教育総合研究所理事。

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