はなそう!これからの事とか

山本太陽

山本太陽
進路ストーリー

男装家・エンターテイナー

男装家、舞台、コスプレイヤーなどで幅広く活動する山本さん。華々しい活躍に至るまでに、どのような人生を歩んでこられたのでしょうか。

たこ焼き屋で学んだ小学生時代

―お生まれは大阪ということですが

大阪の岸和田で生まれ育ちました。私が小さい頃は家がとても貧乏で、団地などにも住めなかったので、神社に住んでいました(笑)神主さんのご厚意で離れを使わせていただいていたんです。それでも父のはじめたタコ焼き屋が大ヒットしたおかげで、今では3階建ての「たこ焼き御殿」を建てることができるくらい余裕ができました。

―たこ焼きで?

たこ焼きで!
お店も7店舗くらいあって、最終的には和歌山店や海外のタイにまで作るほど大きくなりました。実は私も小学生のころからたこ焼き店でずっと働いていたんですよ。私は学校があまり好きではなかったせいもあって、父が毎日、小学校とたこ焼き屋を選ばせてくれたんです。今日は経済的な勉強がしたいからたこ焼き屋で働こう、という風に。父は計算を教えてくれたり、その日の売り上げと原価、給料を突き合わせて、利益を出すためにどこを削ればいいか考えさせたりしてくれました。二人の姉は普通に小学校へ通っていましたが、そのころの私は学校で学ぶよりも社会の中で学ぶことに意義を見出していたので…。

中学時代は心機一転!生徒会長も

でも中学校へ上がってから「勉強って大事だ!」と気づきました。足し算、引き算、割り算、掛け算ができなかったんです。漢字も全然できなくて。小学校の学習が抜けたことでこんなにマイナスだったのだと気づき、焦りました。そこで…不良の多い岸和田の中でも、特に勉強のできない問題児たちが入る寺子屋のような場所へ通い始めました。畳で、おばあちゃん先生が一人いて、物差しで叩かれるようなところでした(笑)。そこで先生に現状を相談したら、今からできることを全部やろうということになりました。先生が言うには、中学校から始まる教科が誰よりもできたら、誰も文句は言わないでしょうと。計算はできないけれど、表計算ソフトも電卓も使えるんだからいいじゃないか、と。だから、英語と国語(漢文など)、社会・歴史をめちゃくちゃ頑張って、ほぼ百点をとりました。その他に中学では、絵を描くのが好きだったので美術部に入って部長をやったり、生徒会長にもチャレンジしました。

―生徒会長!

しかも中2の時に!
私は小学校6年生で既にだいぶワルい子で、金髪だったし、職員室に自転車止めるような酷いやつだったんですよ。それが尾を引いて、放課後に遊んでくれる友達がいなかったんです。学校では遊んでもらえるんだけど、放課後になると「お母さんに止められてるから」って一緒に遊んでもらえない。すごく切なかった。

そういう中で塾のおばあちゃん先生にまた「挽回するには何ができるの?」と問われて、出した答えが「生徒会長になって学校のために尽くします」でした。生徒会長になって見返してやろうと思ったんです。

生徒会長になってからは、ボランティア活動や地域のゴミ拾いを積極的にやったおかげで、周囲の人に次第に見直してもらえて、後ろ指をさされることもなくなっていきました。

学内では、学年全員に好かれるにはどうしたらいいかと考えて、できる範囲で校則を緩めました。ルーズソックスをOKにしたり、女子でもネクタイをOKにしたり…ジェンダーフリーにするためのルール作りをしました。

山本太陽

―そのころから男装について興味があったのでしょうか

そうですね、既に男っぽい恰好をしていました。ちょうど姉がグラビアアイドルとして成功して、母の関心がそちらへ向いてしまった時期で、私は放っておかれて拗ねてしまって。コンビニへ行っても姉と顔の似た私に興味を示す人もいて。無意識に姉との差別化を図って、男っぽくしてたのだと思います。

高校からのこと

絵を描くことが得意だったし、漫画家になりたいという夢があったので、岸和田産業高等学校のデザイン科へ進学しました。でも1年経ったら、絵やデザイン以外にも、もっといろいろなことをしたくなってしまって…母親に相談して、転校を視野に入れ、専門学校(高等課程)のオープンキャンパスヘ行きまくりました。そうやって色々考えた結果、自学するのが一番ではないかという結論に至りました。通信制の学校へ行けば学ぶ時間を自分でコントロールできるなと思い、クラーク記念高等学校の高田馬場校へ転校しました。

夢は漫画家!

通信制に通いながら、中学からの夢である歴史漫画家になるために時代殺陣も習い始めました。バイトも5つ掛け持ちしましたね。ピザーラや珈琲館やスタバ…働くと同時に学び取りました。というのも、漫画家になりたい人のための本、というのを読んだことがあって、漫画家は多趣味な人が多いとあったんですね。その趣味を全てプロレベルにできるようになったら、いろんな漫画が描けるようになるんじゃないかと思ったんです。だから色々やりました!今でも夢は漫画家ですよ、50歳くらいになってなれればいいなと思っています。

漫画家になろうと思ったきかっけは、中学の頃に歴史漫画を読んだことです。歴史が好きになってから読んでみたら、物凄くつまらない!もっと面白く興味をいだけるように描けるだろう、私ならできるのに、と思ってしまった。

漫画は、小さい頃から「ちびまる子ちゃん」みたいな感じで自分のことを残そうと思って、絵日記のような感覚で描いていました。その日にあったことや、家族イベントがあればそれをまとめて漫画にしたりしてました。他の人の書いた作品は6年生に上がるまでまともに読んだことがなかったのですが、描く方はライフワークみたいな感じでした。だから漫画家になろう、と思うのは自然な流れだったと思います。

高校卒業から走り続けて

17歳のころから、東京と和歌山を行ったり来たりしていました。和歌山に移ったきっかけは、家業のたこ焼き屋の和歌山店がオープンし、店長を任されたことです。ここでもバイトを5つ掛けもちしながら、夕方になるとたこ焼き店に合流して店長の仕事をしてました。このころの面白かった仕事は、和歌山の観光協会からスカウトされて就いた「紀州レンジャー」の着ぐるみのバイトです。ゆるキャラのご当地ヒーローで、つまり舞台でヒーローとして演じました。解散までの5年間、つとめさせていただきました。

―舞台のお仕事はそこから広がっていったのでしょうか

着ぐるみが初舞台というわけではないんです。
実は私の母には、娘たちを芸能人にしたいという夢があり、姉たちは演劇劇団に所属していました。私はというとなぜか劇団ではなく、岸和田出身の落語家である桂茶釜さんの劇団に入らされましたが…8歳頃のことなので、子役としてのお手伝いです。初舞台は吉本新喜劇のホール「なんばグランド花月」でした(笑)。

高校から始めた時代殺陣についても舞台で演じていましたし、舞台の世界は身近だったのです。

時代殺陣から男装に至るまで

山本太陽

歴史漫画、とくに幕末などの時代を描くには刀や殺陣について知らないといけない、もっと知りたいという興味から、日本殺陣道協会で学びはじめました。でも昔は女性が刀を振るう時代ではなかったため、刀を振るうには男役をやる必要がありました。そこで配役については男装をして少年兵役を主に担当していました。そうやって男役ばかりやっていたら、次第に女性のFANの人がついてくれるようになりました。そういう方は、私が日常の服装も男っぽくすると喜んでくださるので、次第に男装ばかりするようになりました。それが16~17歳の頃の話です。現在手掛けている男装カフェについても、アルバイトで身につけたカフェの技術と、FANの方を喜ばせたいという思いから企画するに至りました。

コスプレってどこから…

山本太陽

コスプレを始めたのは17歳頃からです。きっかけになったのは、同人イベントにサークル参加したことです。出していた新選組の平隊士の本が見向きもされないので、どうやったら手に取ってもらえるか考えた結果、隊士のコスプレを始めました。当時は中学時代に生徒会長になったこともあり、地毛に戻して眼鏡をかけていて、身なりに気を遣っていなかったんですが、自分の中の理想の隊士の姿を実現しようと髪や化粧を頑張った結果、お客さんがビックリするほど来てくれるようになりました!そこで初めて自分が「カッコいい」ことに気づくことができました。衣装は、今と違って作ってくれる会社もなかったので、全て手作りです。その過程でまた、裁縫や撮影、パフォーマンス、トークなどのスキルまで身についてしまいました。

進路に迷ったことがない!!

山本太陽

やりたい事は全てやっています!その中でもちろん自分に向いてない事もありましたよ、舞台照明とか。知識が何もない状態で飛び込んだのですが、専門学校から来た子たちと比べられてできないと思われることが凄く悔しくて、現場で先輩につきながらそれでも半年くらい続けて契約社員にまでなりました。でも、照明にはセンスが必要だと分かったのであきらめました。他にも大道具の方にも行ってみましたが、こちらも基本スキルまではいけたけど体格的に無理があると思いやめました。しばらく働くと向き不向きが分かるので、そういうものは潔く諦めます。

夢がないってどういうこと?!

最近は会場ガイダンスで高校生の進路相談をすることもありますが、「将来何になりたいの?」と聞いて帰ってくる答えで一番多いのが「夢…ないですね」。興味のあるものを片っ端からやればいいと伝えても「面倒くさいんですよね」…ってどういうこと?!

―何にでもチャレンジしてきた太陽さんとしては、信じられないですよね

本当に。興味がないわけではないと思うので、自分に合うものを片っ端から試していって欲しいです。やらないと分からないし…そういう気持ちにもなれないなら、ぜひ私と話をしに来て欲しいです。喋っていれば自分の経歴や経験の整理整頓ができるし、思ってもみなかったものが見つかったり、あるいは思い出したりできるんですよね。誰かと話すことで、進路が拓けることはあると思うんですよ。

山本太陽のこれからの進路!

―漫画家は50歳までに目指すとして、直近の目標はありますか?

歴史の研究をずっと続けているのですが、自分で調べられる限界を感じていて…大学へ行きたいと思っています!私も学校選択の最中です。進路イベントに参加するときも、休憩中は学校ブースを回って話を聞きまくっています。日本史、特に幕末に興味があって調べていますが、新選組の平隊士(名前しか分かっていないなど)について調べられていないことに気づいたんです。文献に名前は出てくるのにお墓などが分かっていなかったり…そういったものを今、1人1人調べていっているのですが、現地へ行っても分からないことが多いのが実情です。

―既にフィールドワークをされているんですね!

この間は函館までお墓を探しに行きましたが、見つかりませんでした。大学へ行っている知人から、こういった活動は大学に入って、学会で研究会を立ち上げた方がよいとアドバイスをもらいました。しかも大学へ入ったら4年間、歴史の勉強に専念できる!それってとても幸せなことです。だから、大学へ行きたい!

今は男装や殺陣などの特技のおかげで舞台のオファーをいただけていますが、いつまでも若いままではいられないし、いつか仕事がなくなる時が来ます。そうなったら、第2の人生で歴史を学んで、その後は歴史知識を活かして漫画家として活躍したいです。

―太陽さんのお話を伺っていると、全てが地層のように積み重なって今がある事が分かります。何事も無駄になる事はないんですね。

私の唯一尊敬する漫画家さんに、こうの史代さんがいます。彼女は第2次世界大戦を題材にした漫画を描く人で、「この世界の片隅に」の作者なのですが、ブレイクするまでずっとオリジナル同人誌を描き続けていた人なんです(現在49歳)。決して絵が上手い方ではないけれど、物凄く味のある絵で…遅咲きでも漫画家になれる、続けることが大事だと教えられます。

進路に悩む高校生、保護者の方へのメッセージ

人に話すことが一番大事です。
もし可能であれば、進路ガイダンスなどに来て、何でもいいから話してほしいです。興味のあることはあるけど、私には無理だろうなとか、そういう話でいいからしに来て欲しいです。話すことで人生の再確認ができますよね。

私は高校生と話す時、小さい頃の夢を聞くのですが、例えばサッカー選手だったとします。でも高校生からサッカー選手になるのはほぼ不可能なので、サッカー業界に入ることを提案します。たとえばスポーツマッサージ師とか、マネージメントの方ですね。そういう風にいろんな道があることを伝えたいです。「YouTuberになりたい」という相談でもいいですよ!「芸能界に入りたい」でもいいです。私は事務所に所属していたこともあって、所属するメリットデメリットもお伝えできます。芸能関係の知り合いもいるから、スカウトを受けた事務所がどんなところか調べることもできます。

高校生だけじゃなく、社会人の方や保護者の人にも相談に来て欲しいです。お子さんと話すのが難しい人がいたら、まず私に相談して欲しいです。進路に悩んだ瞬間に、話に来て欲しいです。

もちろんガイダンスは日時も限られているし、関東圏以外の人は来るのはむつかしいと思うし、匿名で相談したい事もあると思うので、そういう人はこのシステムを使って相談してください。

※現在、山本太陽さん宛ての新しい進路相談のお申し込みは受け付けておりません。進路相談は進路ナビの「みんなの進路相談」ですることができます。

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