昨年末教員の働き方改革をめぐって激しい議論がかわされたことは記憶に新しい。
教員が際限もなく働く背景になっているとされる教育公務員特例法の廃止・見直しが焦点であった。
文科省中央教育審議会は、教育公務員特例法を存続させたうえで、
教職調整額の増額と「教員の働き方改革」の一層の推進を図ることで
決着を図ろうとする答申をまとめた。現行法の骨格は維持、という結論である。
この問題は年末の文科省と財務省との大臣折衝に持ち込まれたが、
財務省側対案があらかじめ打ち出されたことに従来と異なった点があった。
結果的には、教育公務員特例法の骨格は維持されたうえで、
教職調整額の一律増額を年次的に進め、現行4%の教職調整額を10%に引き上げる、
ということで決着が図られた。
省庁概算要求に際し財務省対案が事前に提出されるという異例含みの展開となり注目を集めたが、
大臣折衝終了後も「教員の処遇改善問題」はくすぶり続けている、と見たほうがよいようだ。
「教員の働き方」の問題がこれほどまでに問題化するのは、
全国各地の教員不足や教員採用試験倍率の中長期的な下落に背景があるが、
では、そうした事態はなぜ発生するのだろうか。
教職課程で教鞭をとり始めて40年前後を数える。
この間思い起こしたようにTV等で上映された映画等がある。
「二十四の瞳」、「金八先生」、「窓際のトットちゃん」などなどである。
いずれも、先生へのあこがれ、教職のすばらしさ、やりがいなどを描いている。
年末にはTVで「二十四の瞳」が上映されていたが、
世間で語られる「教職人気の低迷」とは正反対の事態のようにも見える。
昨年ある教員養成大学の行事に参加すると、
WBCで日本が野球世界一となり、その立役者として名声を博した元監督が招かれていた。
講演会では多数の学生が席を埋めていたが、質問を求めるコーナーになると、
いち早く手をあげ、立ち上がり話し始めた女子学生が目に留まった。
彼女の質問は、「私たちは(大変だ、大変だと言われる)教職に向かおうとしています。
では、私たちは(監督のように、名声を博した方の立場からは)教職に
どう立ち向かえばよいと思われますか?」という趣旨であった。
率直な、ストレートな質問である。
教育の世界を見つめると、子どもの世界にも弱肉強食の「競争」が持ち込まれ、
「友だち同士助け合いましょう」「困っている人を見かけたら助けてあげましょう」
などなどがうつろに響くような「競い合い」の現実がはびこっている。
日本を含め、世界の先進国に「学歴主義」がはびこっている、
と指弾したのはドーアの『学歴社会 新しい文明病』(原書出版、1976年)であった。
以来実力主義への転換が希求されたが、「学歴」の競い合いに変え「実力」の競い合いに転化しても、
弱肉強食の「競い合い」という原理そのものは否定されない。
競い合い文化の蔓延は「新しい学歴主義」登場のようにも見える。
日本政府も教育白書『日本の成長と教育』(1962年)以降、
経済成長の基礎として教育をとらえるようになった。
OECDによる国際教育調査、PISA(子どもの学力)、PIAAC(成人の力)、
AHELO(大学生の資質)、TALIS(教員の待遇や資質)すべてに我が国は参加しているが、
調査結果に示される我が国の国際順位には敏感である。
以上の時代意識を考えると、職業としての教職では、教育の世界で功成り名を遂げることこそ生き方、
という文化が持ち込まれるのも必然という気もする。
しかし、「子どもと向き合うことに楽しさ」を感じ、
「教える子どもがこれまでできなかったことが、できるようになった」ことに喜びを見出し、
「大きくなったね」と子どもや保護者に満面の笑みを向けることにやりがいを求める、
というのは古臭い教職動機であり、捨て去られるべき教職観と言うべきなのだろうか。
「教員不足」問題を再考してみたい。
【プロフィール】
教育政策論、教育社会学専攻。大学教員として46年間過ごし、
現在は東京学芸大名誉教授、 国立教育政策研究所名誉所員。
千葉教育創造研究会(隔月1回会合)に40年以上参加し、
さまざまな世代の教職員と「教育のこれから」をテーマに探究を進めてきた。
また、「災害文化研究会」(岩手大学工学部が組織化)や
「縮小社会研究会」(京大工学部等が組織化)に所属し、
縮小社会や大震災のもとでの教育について研究を進めている。
地域復興などに際して教育が持つレジリエンス(回復力、弾性力)に関心を持つ。
<これまでの経歴や著書、論文等>
https://bunkyo.repo.nii.ac.jp/records/7687