(※編注:本コラムは3月下旬に執筆いただきました)
このご時世、3月半ばの時期まで、入試に緊張感をもってのぞんでいる受験生は、
いったいどれくらいいるのだろう。
周知のように、現在では、国・公・私立大学を合わせると、
学校推薦型選抜や総合型選抜などの「年内入試」で進学を決める受験生が、全体の過半数を超えている。
一般選抜にのぞむ受験生じたいが半数を切っており、
ましてや国公立の一般入試の時期まで「受験生」であり続ける者は、かなりの少数派になる。
私事になってしまうが、たまたま、地方に住む姪っ子が大学受験の年を迎えていた。
総合型選抜で東京の私大を受けるというので、時々相談に乗っていたりした。
ただ、彼女の話を聞けば聞くほど、
そこには筆者が思い浮かべるような「受験」の面影がほとんどないことが新鮮だった。
部活は最後まで続けたし、バイトもシフトに入る回数を多少減らしていただけ。
推し活も、本人的にはセーブしていたらしいが、コンサートを観に上京することも何度かあった。
もちろん、高校の成績を落とさないような努力はし、小論文対策などの学習もしていたという。
しかし、そこにはかつて「螢雪時代」とか「四当五落」、「刻苦勉励」といった言葉が
流行した時代のような悲壮感はいっさいない。
そんな彼女は、10月中には東京まで試験を受けに来て、11月初めには合格を決めている。
以後は、もとのように高校生活を存分に謳歌する体制に戻った。
本人の希望がかなったのだから、これ以上喜ばしいことはない。
ただ、一歩退いて考えたとき、彼女にとって大学受験をくぐり抜けたことは、
どれほどの「通過儀礼」になったのだろうか。
もちろん、苦労も含めて貴重な体験をし、自らの成長につながったであろうことは疑いない。
しかし、かつての世代がしたような「儀礼」の通過の仕方と比べると、やはり隔世の感がある。
世間が言うように、「年内入試」はやりは、学力低下につながるとか、
早く合格を決めたい安定志向の現れだとか、そんなことを言いたいわけではない。
ただ、若者たちが大人になるプロセスにおける受験ということの「意味」が、
少しずつ変化しているのかもしれないという事実は、
キャリアの研究や支援に携わる者として、しっかりと頭に刻み込んでおきたい。
【プロフィール】
教育学研究者。
1996年から法政大学に勤務。
2007年キャリアデザイン学部教授(現職)。
日本キャリアデザイン学会理事。
著書に、『高校教育の新しいかたち』(泉文堂)、
『キャリア教育のウソ』(ちくまプリマー新書)、
『夢があふれる社会に希望はあるか』(ベスト新書)等がある。