「世代論を超えて、世代論へ」筆者・法政大学キャリアデザイン学部 教授 児美川孝一郎

※編注:本コラムは、1月下旬に執筆いただきました。

毎年のことだが、成人の日の前後になると、
メディアでは「今年の新成人の特徴は?」といった記事を目にするようになる。
新成人が抱く将来展望やキャリア意識などに焦点を当てた議論も少なくない。

個人的には、今どきの若者を理解する際は、世代としての共通性よりも、
個人個人の違いや多様性のほうが大きいのではないかと思っているので、
そうした議論に強く惹かれることはない。しかし、では、世代論などは
すべて「眉唾もの」と見なしているのかというと、それも違う。

大学の教員として、毎年新たに入学してくる学生と接していると、
確かに「この年代に特有なのかなあ」と思わされるような
学生の言動や意識に出くわすことがある。
通常の場面では、彼・彼女らは十分に個性的であり、多様である。
しかし、時として彼・彼女らのことを、
集団的なまとまりで「いかにも今どきの」と感じさせられてしまう瞬間がある。

このあたりの微妙な機微をどう考えたらよいのかと頭を捻っていたとき、
想起されたのは、社会学の分野では古典的なポジションにある世代論を提起した
K・マンハイムの「世代の問題」(1928年)という論文である。
マンハイムの議論のユニークな点は、世代の問題を論じるに当たって、
「世代状態」「世代連関」「世代統一」を区別した点にある。
世代状態とは、青年期を同じ時期に、同じ社会で過ごしたという客観的な条件のこと。
世代連関とは、同じ世代状態に属する者たちが、
共通の社会的出来事や経験にコミットすることで、
相互につながりや関連性ができた状態のこと。
そして、世代統一とは、そうした世代連関を土台にしつつ、
そこに価値観や生き方の志向が重ねられて、
同一の世代のなかに共同性を有した複数の集団が生じることを指す。

「世代状態」は、出生に由来する自然的なものなので、本人にはどうしようもない。
しかし、「世代連関」は、そうした自然的条件が提供する社会的な経験に
本人がコミットした結果、生まれてくる共通性である。
今の日本で言えば、デジタル・ネイティブ、「推し」文化、タイパ重視
といった若者文化が、そうした共通項であろうか。
考えてみると、Z世代にしてもα世代にしても、
世間で「世代論」として語られている言説は、
こうした意味での世代連関のことを指している。
しかし、世代は、世代連関をも超えていく。
世代連関を土台にして形成される「世代統一」は、今ふうに言えば、
「意識高い系」「そこそこ感覚」「安定・安全志向」「映え・ノリ重視」
といった具合に分化していると言えるだろうか。
その意味では、Z世代などと言っただけでは、
全体の土台を指しているだけで、その先の何も言ったことにはならないのである。

こんなふうに考えると、世代論も捨てたものではないなと思う。
世代連関の次元にとどまった議論をしてしまうと、解像度は低いままである。
しかし、そうではなく、世代連関と世代統一を往復しながら、
若者たちを理解するための「補助線」を磨いていくという挑戦は十分に可能なのだろう。
大学教育やキャリア支援の現場においても、
こうした厚みを持った視点からの学生理解、学生たちの世代的な共通性を見すえつつも、
ひと括りにはしない複線的な、柔軟な対応が求められているのではないかと思う。

【プロフィール】
教育学研究者。
1996年から法政大学に勤務。
2007年キャリアデザイン学部教授(現職)。
日本キャリアデザイン学会理事。
著書に、『高校教育の新しいかたち』(泉文堂)、
『キャリア教育のウソ』(ちくまプリマー新書)、
『夢があふれる社会に希望はあるか』(ベスト新書)等がある。