前回(2025年8月28日掲載)は、震災復旧・復興から「災害論」へ、
という視線を広げる必要に触れ稿を閉じた。
その背景に潜んでいたのは次の観点であった。
第一は、日本列島を襲う大災害は、自然災害にとどまらない人文社会的災害を包摂した、
包括的な概念として検討を加えるべき時代になっている。
第二は、大災害からの子育て・教育復興には、被災の「全体性」に着目した、
「われらの子ども」という観点が重要になる。「公教育」の揺らぎへの着目である。
ところで、我々は近代社会の中に生きているが、
そもそも「近代社会」とはどのような経緯で形成されたのか。
ハーバマスは、この点に関連し、
著書『公共性の構造転換』(細谷他訳、未来社、1973年)で次のように論ずる。
近代社会は、イギリスの産業革命やフランス大革命を契機に、
社会支配層に占有されていた権力を工場労働者、
民衆に「開く」要求運動(開かれた「公」の形成)の展開過程で発生する。
しかし同時に、近代国家形成の過程では統治機構(政府)が形成されるようになり、
「保守としての公」の出現を介して「公」の二重構造
(「開かれた公」と「閉じられた公」の構造)が生み出されることになった。
国民一人一人が「国家(保守としての公)」に対抗して、その尊厳や権利を守護するには、
「私」を前面に出し「公」に対抗するしか術がない。
「公と私の対立構造」の出現である。
パットナムは『われらの子ども』のなかで、
コミュニティを基盤にした米国の古き良き時代が失われ、
「われらの子ども」という観念が霧散してしまったことを論難している。
しかし、それは「公共性の構造転換」のなかで、
「開かれた公」が国家性を帯びた「閉じられた公」へと変化することと裏表の関係にあった。
そうした時代状況のもとで「小さな政府論」が唱えられることになると、
規制されない、奔放な「自由」を本質とした、弱肉強食の格差社会が瀰漫(びまん)する。
「新自由主義」と呼ばれる社会の出現である。
大震災被災地が直面しているのは、以上のような社会変化のもとでの
「明日の未来社会像」の描き方の問題である。
わが国の現在も「われらの子ども」像が溶解する過程にあるとすれば、
それをどう評価し、どのような未来像で代替するか、
具体化に向けてどのように前進したらよいか。
本稿で、被災地の復興問題を「災害論」の文脈で語ろうとし、
公教育論の視点から迫ろうとすることの背景である。
前稿で触れたように、パットナムはハーバード大の政治学者で、
イタリア研究を基礎に「ソーシャルキャピタル(社会関係資本)論」を提唱している。
膨大な著作が公にされるなかで、氏の鍵概念を簡明な拙い紹介で
説明することには危険性があるが、なおかつ言及しないのも問題を含むので、
『哲学する民主主義‐伝統と改革の市民的構造』
(パットナム著、河田潤一訳、NTT出版、2001年)
の一節を以下で紹介することとする。
ソーシャルキャピタル概念を解説している個所である。
「ここで使用する社会資本(注:本稿では「社会関係資本」として訳出している)は、
調整された諸活動を活発にすることによって社会の効率性を改善できる、
信頼、規範、ネットワークといった社会組織の特徴を言う。
社会資本は資本の他の諸形態と同様に生産的で、
それがなければ達成できないような一定の目標を実現しうる。
……例えば、メンバーが信頼できることを明示し、お互い広く信頼している集団は、
そうでない集団の幾倍も多くのことを達成できよう。
……農民が、干し草を束ねるのに協力したり、農機具を広く貸し借りしあっているような
……農村共同体では、農民一人一人は農機具や設備の形の物的資本が少なくても、
社会資本のおかげで自分たちの仕事をやり終えることができるのだ。」
被災地の復旧・復興は、パットナムの語る信頼・ネットワーク・規範を
3要素として築かれる「新しい公共」をどう描き出していくかに鍵がある。
【プロフィール】
教育政策論、教育社会学専攻。大学教員として46年間過ごし、
現在は東京学芸大名誉教授、 国立教育政策研究所名誉所員。
千葉教育創造研究会(隔月1回会合)に40年以上参加し、
さまざまな世代の教職員と「教育のこれから」をテーマに探究を進めてきた。
また、「災害文化研究会」(岩手大学工学部が組織化)や
「縮小社会研究会」(京大工学部等が組織化)に所属し、
縮小社会や大震災のもとでの教育について研究を進めている。
<これまでの経歴や著書、論文等>
https://bunkyo.repo.nii.ac.jp/records/7687