小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想 孔子に学ぶ、教育ということ 筆者:堰免 善夫

小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想

孔子に学ぶ、教育ということ 筆者:堰免 善夫
2016年4月1日(金)

 「教育」とは「教して育する」ことである。二字熟語は後字に力点がかかるので、教育においては「教」よりも「育」の方が重要である。つまり「教」は手段であり、目的は「育」にある。教師は「教えること」を通し、生徒を「育て」なければならぬ。生徒側から言えば「学ぶこと」により、自ら「成長」しなければならない。ここで重要なことは、教師が生徒を育てると言ってみたところで、「育」の主体は生徒であり、教師ではないので、あくまで生徒自身が、自立し、自ら己れの成長をはかるように導くことである。だから、手段としての「教」においては、教師は「教科書教える」のではなく、「教科書教える」のは、当然のこと、必然のこととなる。

 では、「教科書で何を教える」のかと言えば、教科書を用いて、20年後・30年後の、その生徒の未来にとって、為になる有益なこと・・・・・・・・・を教えるのである。なぜ「遠き未来」かと言えば、生徒が自立し、自らを成長させるには、ある程度の期間を必要とするからである。しかし、それならば教師が生徒の未来にとって有益なことを教えれば、本当に「生徒は自ら育つ」のか。
 生徒に「反省の気持ち」があれば「自ら育つ」のが前提で、私はそれを信じている。人間が、人間たる本性ほんせいは「反省する」ことにあるからである。


 人間の本質は、決して「理性的」ではなく「感情的」である。その証拠に、我々の日常生活は、自己の理性に基づく意志で行動することなどほとんどなく、習慣の枠組みの中で、感覚的欲求、他人による強制、状況への反射などによる行為により営まれているからである。それでもなお、かろうじて、人間が人間たる規律を保ち得るのは、人間は「反省する能力」を持っているためである。まさに人間とは「反省する動物」と言えるであろう。
 ところが、情報氾濫が著しい現代社会は、次々に判断材料ばかり提供し続け、熟慮黙考の機会を奪い、人々に「反省」のいとまを与えなくなった。もはや現代人は、反省なき動物、極論すれば「人間ではない人」になってしまったかのようである。人間が人間の本性ほんせい放擲ほうてきしたかの如き現代人にとって「反省」を取り戻すことが喫緊きっきんの急務である。
 かくの如き現代人の課題は、ひとまずくこととして、「反省能力保持」ができる生徒でさえあれば、その者は「自ら育ち成長しゆく者であること」を私は信じている。

 昔の人には真面目に「反省」する人が多かった。その証左しょうさは、現代人の心のかてとなる教えは、ほとんどが「昔の人の言葉」であることによる。そして、その昔の人の教えの中心は、なんと言っても、孔子の言葉を集めた不朽の古典「論語」である。「論語」こそ、まさに「反省の書」と言えるであろう。「論語」による人口に膾炙かいしゃしている名言は次の如きものであろう。

 ・古きをたずねて新しきを知る。
 ・巧言令色こうげんれいしょくすくなきかな仁。
 ・学びて思わざればすなはくらく、思いて学ばざれば則ちあやうし。
 ・われいまだ生を知らずいずくんぞ死を知らんや。

 孔子の「論語」は「反省の書」であるがゆえに、最も「教育」的であり、まさに「教育」そのものの、正鵠せいこくている。その最も代表的な言葉は「人にして遠きをおもんぱかりなければ、必ず近きに憂いあり」であろう。「遠い先のことを考えに入れておかなければ、必ず身近に憂い事が生じる」という意味である。温暖化を中心とする地球環境問題などは、まさにこの通りであろう。

 江戸幕末期、ペリーの黒船を見にきた坂本龍馬さかもとりょうまは、浦賀で初めて佐久間象山さくましょうざんにめぐり合う。その時、龍馬は象山から「10(歳)代では父母・家族のことを考えよ。20代では国(土佐藩)のことを考えよ。30代では日本のことを、そして40歳を過ぎたら世界のことを考えよ」と教えられるのである。およそ「教育」にとって最も重要なことは、生徒の未来に確固たる指針を与え、生徒に「大志」を抱かせるように導くことである。
  
 孔子の弟子の中で最も、若く優れた門人・會子そうしは、一日に3回も反省していたことが「論語」には残っている。特に、會子が一番強く反省し自らを矯正きょうせいしていったことは「人のために心を込めて相談に乗ってやらなかったのではないか」「友人との約束を守らなかったのではないか」「ものごとを充分に理解もせずに意見を言ってしまったのではないか」の3点であった。

 ・「を見てはを思う」
 ・「(くにに)みちなきに、とうときは、はじなり」
「人間は、つい目先の利益に目がくらみ、それが正義にかなっているかを考えない」「確固たる道徳・倫理がないのに、蓄財したり出世の権力の座に就いたりすることは、恥以外の何ものでもない」

 これらは、いずれも「人間教育」の肝要である。さらにまた、次の「論語」ほど教育的なものはあるまい。
 ・「小人のあやまちは、必ずかざる」
「誰にも過ちはある。小人は自分の過ちを素直に反省せず、弁解に終始し、改めようとしない」である。次は何の説明も要さない。
 ・「過ちてあらためざる、これを過ちと言う」
最後にもうひとつ
 ・「知れるを知るとし、知らざるを知らずとよ。れ知るなり」


 孔子の「論語」は、2500年前に生きた人々に教えさとした書物である。こうしてみれば、驚くほど、21世紀の現代社会でもそのまま適用できる。いや、社会が変われば変わる程、孔子の言葉は、ますます重要さが増してくるのを実感する。
 さらに付言すれば、孔子が最も嫌った生き方、孔子が「にくむ」と言った人々は次のような者達である。
 @「蛮勇」を誇る人間。蛮勇とは礼を欠き思いやりのない、自分のためだけを考えた勇ましさのことである。
 A条理をはずれ思慮のない行動をする人間。
 Bやたら他人を疑い、邪推ばかりする人間。
 もう、誰もが気が付いたであろう。これらはすべて「反省」のない人間のあり方である。

 「反省」が持続すると「自己省察せいさつ」となる。「反省持続」のためには、その人独自の具体的な日常的方法がなければならない。それを教え導くのも教師の重要な任務である。「自己省察」が積まれれば、青年には、ある日突然に「自己変革」が起きる。この「自己変革」こそ、教育における個人的目的たる「自己実現」の土台である。「自己反省」→「自己省察」→「自己変革」→「自己実現」、これこそが個人教育における哲学過程である。つまるところ「反省」なくして「自己実現」はあり得ない。
 要するに「反省」こそ「教育」の核心(コア)である。
 それを教えてくれているのが、孔子の「論語」なのである。

著者プロフィール

堰免 善夫 (せぎめん・よしお)
長野県生まれ。中央ゼミナール(東京・高円寺)で国語科講師として活躍。小論文、現代文を担当し約40年間勤務。中央ゼミナール監事・役員・小論文主任講師の他、大学新聞社就職コンサル塾副塾長、東京国際学園特別顧問を兼任。
近年は全国の高等学校での高校生、保護者、高校教師対象の講演だけでなく、大学生向けの就職支援の講演会にも登壇している。


◇著書
『古の琴歌(いにしえのことうた)』 (小説作品集) 1987年5月
『知見の旅路』 (思索論文集) 1997年5月
誰にでも書ける 小論文学習の決定版 最も効果的な指導・学習法』 (大学新聞社) 2013年3月
『我が心の久遠・哀愁のヨーロッパ・憂愁の京都』 (紀行随想) 2013年12月

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