小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想 日本近代歌曲の創生(自分の歌の探求―瀧廉太郎そして山田耕筰) 筆者:…

小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想

日本近代歌曲の創生(自分の歌の探求―瀧廉太郎そして山田耕筰) 筆者:堰免 善夫
2019年2月1日(金)

 耳を澄まして、最も遠くの歌を聴いてごらんなさい。すると、その歌は不思議にも最も近く、自己の中から聞こえてくる。心に響く自分の歌であることに気づくであろう。
 私たちの周辺に聞こえる歌は、多くの人にとって、どれも自分の歌ではない。他者の歌である。そしてその歌はなぜか西洋風なのである。きわめて日本的な民謡であっても、演歌であっても、私たちは誰もが、それを「自分の歌」であるとは思わない。他者から与えられた歌だからである。

 学校教育が始まった明治初期、音楽教育は『蛍の光』(スコットランド民謡 『遠い昔』〈Auld Lang Syneオールド・ラング・サイン〉)にしても『仰げば尊し』にしても、元は西洋の楽曲に日本語の詩をつけた「うた」であった。『菊』(庭の千草)、『みわたせば』(むすんでひらいて)も西洋の歌曲の受容じゅようである。
 明治前半の欧化主義に加えて、明治後半の国粋主義期こくすいしゅぎきには『君が代』を歌うことが徹底された。
 その時、このような音楽教育のあり方「与えられた他者の歌」ではなく、「自分の歌」を、ひとり探求していたのが、瀧廉太郎たきれんたろうであった。
 
 瀧廉太郎は1879年(明治12年)、東京に生まれた。1894年(明治27年)に15歳で東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学し、ひたすら「みずからの歌曲かきょく」の探求たんきゅうに打ち込んだ。卒業後は、音楽学校の教員をしながら音楽の勉強を続けた。
 そして1900年(明治33年)に、画期的な組歌『四季』を発表。ここに「日本近代歌曲」が創生されたのである。組歌中、最も有名な「春の歌」である『花』“春のうららの隅田川…”こそが、日本人の初めての「自分の歌」となった。

 世界の歌曲王かきょくおうといえば、なんといってもフランツ・シューベルト(1797〜1828年)である。特に、ゲーテの詩によるシューベルトの歌曲は、詩にしても曲にしても、この上ない美しさである。
 瀧廉太郎は、組歌『四季』を出した際、「いつまでも西洋の既成曲の替え歌ばかりではならない。日本語の独創的な詩を出発点として、その詩の内容、雰囲気に合わせた美しい曲づくりをするべきだ」といった趣旨の序文を残している。
 しかし、そうは言ってみても「美しい詩と曲」の妙味を創作することの困難に呻吟しんぎんする。

 瀧が最も苦労したのは、「作詞における言文一致体の美しい日本語」であった。(『仰げば尊し』は文語体の歌である。)音楽家の瀧は、まず最も簡潔かんけつで最もわかりやすい近代日本語での曲作りを試みた。
 そして、その試みは成功する。それが、年末になると日本中のあちらこちらから聞こえてくる童謡、『お正月』である。
 「もう幾つ寝ると〜」から始まる有名な曲だが、これこそが、作詞家・東くめ(1877〜1969年)と瀧廉太郎によって日本で初めて言文一致体で作られた歌曲なのである。
 そしてその集大成として、1901年(明治34年)、土井晩翠どいばんすい作詞の『荒城の月』が作られた。
 こうした日本近代歌曲の先駆者せんくしゃ・瀧廉太郎であったが、本格的に作曲を学ぶため留学したドイツ・ベルリンで肺結核をわずらい、わずか2年で帰国。1903年(明治36年)初夏、23歳10カ月で夭折してしまうのである。 
 
 しかし、日本の歌曲は死なず。瀧廉太郎の「新しい日本の歌曲を作る夢」は、次の世代の山田耕筰やまだこうさくに、見事みごとに受け継がれてゆく。
山田耕筰こそ、「日本の歌曲王」という名にふさわしい。あたかも、ヨハン・シュトラウスT世が「ワルツの父」と呼ばれ、対してその子息ヨハン・シュトラウスU世が「ワルツ王」と呼ばれたがごとくである。

 『赤とんぼ』(三木露風みきろふう作詞)『からたちの花』『この道』『まちぼうけ』『ペチカ』(すべて北原白秋きたはらはくしゅう作詞)などの名曲は、いずれも歌曲王・山田耕筰の作曲である。
 山田耕筰の作曲した歌曲・童謡は非常に多く、その数は「世界の歌曲王」シューベルトよりも多いと言われる。まさに、純粋な日本語の美しさが、心に残る名曲と重なり、不滅の美しい歌曲となって、日本人の子どもの私たちの内奥に生き生きと宿ったのだ。

 山田耕筰は1886年(明治19年)、東京・本郷の医師の家に生まれた。父はキリスト教伝道師も務めるクリスチャンホームで、耕筰も幼少期から讃美歌を身近に聴き、『主われを愛す』などは、英語でも歌っていた。
 山田耕筰の自伝『若き日の狂詩曲』(1951年(昭和26年)上梓)によると、耕筰は10歳で父を亡くし、キリスト教系の養育施設・自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)で育った。自営館でも彼は英語で讃美歌を歌ったと記されている。ゆえに耕筰にとっての西洋音楽は決して異質のものではなく、きわめて母国語的であった。

 1904年(明治37年)に入学した東京音楽学校(現・東京藝術大学)では、「作曲」ではなく「声楽」を専攻した。校内で唯ひとり、ドイツ語でシューベルトの歌曲『菩提樹』を歌って聞かせることができた。卒業後はそのまま音楽学校の教師を務めた。
 1910年(明治43年)、23歳の耕筰はドイツ・ベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学し、そこで初めて作曲を学び、寝食を忘れてドイツ語と作曲の勉強に励んだ。その結果、ドイツ語の詩に、見事な西洋音楽の旋律とピアノ声部を作曲し、ドイツ人の作曲より優れた歌曲を生むに至った。
 その上で耕筰は、日本から持参した詩集、三木露風みきろふう廃園はいえん』、北原白秋『思ひ出』などの詩について、次々と作曲を試みる。
 しかし、ドイツ語と日本語の「強弱アクセントの違い」が大きな壁になり、日本語の詩に対する作曲に悪戦苦闘することとなる。
 この苦闘は日本への帰国後も長きにわたり続いた。その中で耕筰は、詩人、特に北原白秋とのコラボレーションを積極的に行った。そして、耕筰の西洋音楽と白秋の日本語詩の「音楽的結婚」による「新しい歌曲芸術世界」が創生されたのである。
 2人は1922年(大正11年)雑誌『詩と音楽』を創刊。互いに語り合い、刺激し合いながら、多くの人々により長く歌い継がれる「自分たちの歌曲」の名作を次々に生み出していったのである。

 そもそも元来、音楽と言語は分けることができない「一体」のものであった。「祈り」においては、気持ちの高まりと共に自然と節付ふしづけされて旋律を持つようになった。「歌曲」とは元々そういうものである。
 耕筰と白秋は、ついに「歌曲の始原しげん」に到達したのだ。白秋の詩が音楽的である所以ゆえんも、耕筰の曲が祈りのごとき旋律を持っていることも、必然である。

 瀧廉太郎も山田耕筰も、かくのごとく長くて辛い「生みの苦しみ」の果てに、「日本近代歌曲」を「自分の歌」として創生したのである。
 だからこそ、これらの歌曲は日本人にとって「自己の中から聞こえてくる、心に響く私の歌」なのである。

(参考図書)『自分の歌をさがす―西洋の音楽と日本の歌』著者・秋岡 陽(2003年フェリスブックス)

著者プロフィール

堰免 善夫 (せぎめん・よしお)
長野県生まれ。中央ゼミナール(東京・高円寺)で国語科講師として活躍。小論文、現代文を担当し約40年間勤務。中央ゼミナール監事・役員・小論文主任講師の他、大学新聞社就職コンサル塾副塾長、東京国際学園特別顧問を兼任。
近年は全国の高等学校での高校生、保護者、高校教師対象の講演だけでなく、大学生向けの就職支援の講演会にも登壇している。


◇著書
『古の琴歌(いにしえのことうた)』 (小説作品集) 1987年5月
『知見の旅路』 (思索論文集) 1997年5月
誰にでも書ける 小論文学習の決定版 最も効果的な指導・学習法』 (大学新聞社) 2013年3月
『我が心の久遠・哀愁のヨーロッパ・憂愁の京都』 (紀行随想) 2013年12月

「進路ナビ」では、進路情報研究センターからの各種最新データや講師によるコラムを配信しております。ぜひ日々の進路指導に、ご活用いただけますと幸いです。
  • 講演講師ナビ
  • 大学新聞定期購読キャンペーン
  • 進路コラム
  • 書いて考えるシリーズのご案内
  • 進路ナビゲーションのご案内
  • 就職懇談会のご案内
  • 進路アドバイザー検定
  • キャンパスアクター