小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想 「真実の自己愛とは何か」 筆者:堰免 善夫

小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想

「真実の自己愛とは何か」 筆者:堰免 善夫
2018年12月1日(土)

 現代詩人・吉野弘の詩、『奈々子に』の一節に、次のようにある。

  ひとが
  ひとでなくなるのは
  自分を愛することをやめるときだ
  自分を愛することをやめるとき
  ひとは
  他人を愛することをやめ
  世界を見失ってしまう
  自分があるとき
  他人があり
  世界がある
 
 ― 中略 ―

  お前にあげたいものは
  香りのよい健康と
  かちとるにむづかしく
  はぐくむにむづかしい
  自分を愛する心だ

  『吉野弘詩集』(吉野弘 1999年・ハルキ文庫/発行:株式会社角川春樹事務所)
 
 
 「自分を愛する」とは、もちろん「自己中心」「自己を甘やかす」「自分さえよければいい」ということではない。
 上記の詩の中で「かちとるにむづかしく」「はぐくむにむづかしい」とうたわれているように、自己の信念に誠実であること、忠実であることが、【真の自己愛】である。 
 言いえれば、それが「自己を大切にする」ことであり、「その大切な自分をけがすな!」「自己の信念をつらぬ気高けだかく生きよ!」ということに他ならない。 

 現代日本人として世界的に著名なオーケストラ指揮者しきしゃ佐渡裕さどゆたか(敬称略)は、まさにそのように生きている一人である。
 佐渡は1961年、京都府に生まれた。小学校の卒業文集にはすでに、「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者になる」という夢を書いている。そして2011年5月、ついに念願のベルリン・フィルに客演指揮者として招かれ、3日間にわたりベルリン・フィルの指揮台に立った。

 ベルリン・フィルは、並の楽団ではない。ウィーン・フィル、ニューヨーク・フィルなど、世界に冠たる楽団の中でもトップクラスの、超一流の楽団である。それだけに、その厳しさも世界最高である。

 ベルリン・フィルでは毎年、世界で著名な指揮者(マエストロ)を20人ほど客演として招待するが、そのうち再度呼ばれる者はごくわずかである。指揮者の善し悪 よ あしを決定するのは、楽団員だ。その彼らにひとたび力不足と判断された指揮者は、二度とベルリン・フィルでタクト(指揮棒)を振ることはできない。
 楽団員は、最初の練習の、最初の10分で、指揮者の実力を見定める。一発で指揮者の能力に判定が下されるのだ。
 認められなかった指揮者は、まさに「針の蓆 ハリ むしろ」に立ち続け、「心離れたタクト」を振らねばならない。楽団員は指揮者を無視して勝手に演奏を進め、指揮者はそれに合わせて上滑うわすべりの指揮をすることになる。指揮者にとって、これほど惨めなことはない。
 よって、指揮者にとってベルリン・フィルの公演は、背後の聴衆どころか眼前の楽団員による試験を受けているのと同様で、緊張の連続となる。
 かくの如く厳しいベルリン・フィルゆえ、楽団員が心服した指揮者は数少ない。カラヤンやバーンスタインなど、ほんの数人にすぎない。
 ベルリン・フィルで認められるために、佐渡は、どのように自己の夢や目標に誠実・忠実であったのか。つまり、ベルリン・フィルの指揮台に上がるという夢を成功させるため、彼は「どのように自己を愛したか」である。


 佐渡は、小学生の頃からフルートを学んでいた。京都市立芸術大学もフルートで卒業している。ただ、指揮者になりたいという夢は子どものころから決して変わらず、独学で地域の高校やアマチュア楽団の指揮台に立っていた。
 25歳のとき、アメリカで開催されるタングルウッド音楽祭の指揮者オーディションに応募。そこで、日本を代表する名指揮者、小澤征爾に才能を見い出された。そして、タングルウッドの教授であったアメリカ人作曲家で、指揮者としても有名なレナード・バーンスタインに師事することとなり、ウィーンへ留学。バーンスタインの元でアシスタントをしながら、幅広いジャンルの現場を経験する機会を得た。
 
 やがて、佐渡の努力が実り、マエストロとして実力が認められるようになった。ヨーロッパ中の楽団から指揮者として招かれるようになり、ついにはフランスのコンセール・ラムルー管弦楽団の首席指揮者を務めるまでになる。だが、佐渡はベルリン・フィルで振る夢を諦めていなかった。
 

 2009年、佐渡は長年住んだパリを離れ、ベルリン・フィルのホールまで歩いて2分の場所に住まいを移した。ベルリン・フィルからは、まだ何のオファーもきていないのにである。
 そしてその2年後、ついにベルリン・フィルから待望のオファーがきた。
 演目のひとつは、ドミートリイ・ショスタコーヴィチの『交響曲第5番(ニ短調)』であった。“ショスタコ”の愛称で呼ばれるが、「ロシア革命」の哀しみを、カラー画よりももっと胸迫る白黒写真のごとうつし出す、彼の代表作である。
 筆者の私自身、50年以上も以前の学生時代、ショスタコーヴィチの楽曲が使用された映画を観たことがある。その時、私はそのスクリーンミュージックを聴いただけで、自然に涙があふれる体験をした。なぜ涙したのか、当時は理由がわからなかったが、30年ほど経て50歳を過ぎてから理解できた。
 それは「深い悲しみの奥底にある切ない祈り」が音楽によって表現されていたからであった。
 

 佐渡のベルリン・フィル公演までを追った、NHKのドキュメンタリー番組『情熱のタクト―指揮者 佐渡裕 ベルリン・フィルへの挑戦―』を見た。
 ベルリン・フィルとのリハーサルで、佐渡は、特に第3楽章の楽譜の解釈と演奏について、チェロとオーボエの首席演奏者に「そこは、あなた自身が痛みを伴う祈りをもって」と、ドイツ語で丁寧に指導していた。「その“切なる祈りの演奏者の心”により、第1楽章のオーボエの“悲しくも美しいメロディー”も、チェロの“悲痛極まるピアニシモの音調”も、初めてショスタコの心にかなうのです」「ロシア革命は民衆の祈りの勝利なのですから」と、静かに語りながら、長時間にわたるリハーサルを終えた。
 果たして本番は大成功。世界一耳が肥えているとも言われるベルリン・フィルファンの聴衆も、楽団員も、演奏を終えると総立ちになり拍手と喝采を浴びせあい、互いに大絶賛した。

 ベルリン・フィルには現在、コンサートマスターとして第一バイオリンの若き奏者、樫本大進かしもとだいしんがいる。その樫本が、佐渡のベルリン・フィルの公演終了後のインタビューに応えた。「佐渡さんの【深い解釈力】と【統率力】は凄い。楽団員がみな心を開いて、楽譜に書かれていないこともよく理解していった。佐渡さんの指導によりベルリン・フィルは、楽団員が一体になって、最高の音楽性、芸術性、インスピレーションを共有した。一本のタクトにより、楽団が見事に組織化された。これは私が日本人だから言うのではない、私はベルリン・フィルの楽団員として言っているのである。」

 この佐渡の在り方こそが、『本当に自分を愛する、真実の自己愛の姿』である。

著者プロフィール

堰免 善夫 (せぎめん・よしお)
長野県生まれ。中央ゼミナール(東京・高円寺)で国語科講師として活躍。小論文、現代文を担当し約40年間勤務。中央ゼミナール監事・役員・小論文主任講師の他、大学新聞社就職コンサル塾副塾長、東京国際学園特別顧問を兼任。
近年は全国の高等学校での高校生、保護者、高校教師対象の講演だけでなく、大学生向けの就職支援の講演会にも登壇している。


◇著書
『古の琴歌(いにしえのことうた)』 (小説作品集) 1987年5月
『知見の旅路』 (思索論文集) 1997年5月
誰にでも書ける 小論文学習の決定版 最も効果的な指導・学習法』 (大学新聞社) 2013年3月
『我が心の久遠・哀愁のヨーロッパ・憂愁の京都』 (紀行随想) 2013年12月

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