小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想 「思考成立・思考行為」 筆者:堰免 善夫

小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想

「思考成立・思考行為」 筆者:堰免 善夫
2018年11月1日(木)

 「思考すること」。人類はいつからものを考えるようになったのであろうか。思考は、人間の「大脳」という器官が進化、成長してある大きさになり、その機能が分化を始めたときから起こったと言えるであろう。しかし、大脳が自ら大きくなり、また自らさまざまに働くようになるということはない。大脳は、あくまで人間を取り巻く環境とのかかわりの中で発達を遂げるのである。その人間を取り巻くさまざまな環境は、換言すれば「世界」と言える。
 大脳の成長と世界の広がりは不即不離ふそくふり一体不二いったいふにの関係にある。ゆえに大脳は「世界の一つの描像」の相関者といえる。(だからこそ、人造人間は決して人間そのものになることはできない。)
 しからば、「世界」と密接な関係にある「大脳」は、どんなときに大きくなり、機能分化するのであろうか。つまり、「思考」はいつ、どんなときに成立し、行為しはじめるのであろうか。
 人間の祖先も、原始時代には他の生物と同様、生命維持のため、身近に常に存在する食物を採取、捕獲していた。この段階においては、大脳進化はなかった。
 「思考」は、「反復される世界」における【偏差へんさ】により、人間が【当惑とうわく】状態になるときに成立・行為される。このことを、慶應義塾大学文学部教授、斎藤慶典博士の著書『哲学がはじまるとき―思考は何/どこに向かうのか』 (筑摩書房) による具体例をもってわかりやすく叙述しよう。

 大昔、農業がまだなかった時代、人は豊かな自然の中、川の浅瀬の畔に住み、毎日その日に食べる分だけ魚を獲って暮らしていた。ある日、浅瀬に行ってみると、いつもは清流の浅瀬に群れていた魚たちが見当たらない。「いつも同じように魚が群れていた。」これは「【反復】される世界」である。「ある日突然魚がいなくなった。」これが【偏差(ずれ)】である。「どうしたのだろう。困った。今日は全く魚が獲れなくなった。」これが【当惑】である。そこから思考が始まる。いや、正確に言えば「どうしたのだろう」までが【当惑】で、その後に続いて「えっ。どうして?」という【問い】が発せられる。この【問い】により【思考】が立ちあがるのである。そして、魚がいなくなった理由に思考をめぐらし、その答えに基づいて魚を探すという行為に移る。
 要するに思考は、「反復」「偏差」「当惑」「問い」の過程が一瞬のうちに凝縮されて「成立」し、続いて「行為」される。そしてこの思考の成立と行為の間も一瞬である。

 以上の如き「思考成立」と「思考行為」について、最近の私自身の体験を次に叙し、私の「新たな思考」を紹介したい。   

 最近、私は、一人の小学生の女の子から、「よい本とはなあに?」と聞かれた。幼少期から私は「本が友達」で、今でも「読書が最大の趣味」である。これまでジャンルを問わず多くの本を読んできた。私の頭の中には、すぐに少女向けの『良書』として考えられる『童話』や『女性偉人の伝記いじん でんき』などが何冊も浮かんだ。
 女性の偉人として、すぐさまげたのは、奇跡の人『ヘレン・ケラー』、近代看護教育の母・白衣の天使『ナイチンゲール』、ラジウムを発見した学者『マリ・キュリー(キュリー夫人)』、第二次世界大戦中ナチス・ドイツのユダヤ人迫害を日記に残した『アンネ・フランク』、アメリカの公民権運動活動家『ローザ・パークス』、カナダの児童文学小説家『モンゴメリ』、モッタイナイを世界に広めたノーベル平和賞の『ワンガリ・マータイ』などである。
 だが、その少女は、それらの偉人の功績どころか、名前さえ知らなかったのだ。少女は怪訝けげんな表情でたたずんでいた。私はびっくりしたが、それでは……とばかりに、『赤毛のアン』『不思議の国のアリス』『マッチ売りの少女』など、頭に浮かぶ限りの児童文学を、立て続けに挙げていった。
 しかし、彼女はそのすべての作品名を知らなかった。私の衝撃は大きかった。
 私の中の読書世界は、常に変わらぬ「反復世界はんぷくせいかい」である。そこに小学生の少女による、真っ向からの【偏差】が突きつけられた。そして、私が挙げた本の名を彼女が全く知らなかったという【当惑】が、私に激しい動揺どうようを与えた。私は初めてそこで新たなる【問い】を自分自身に向かって発することになった。「本当の良書とは何であろうか」「何を指して良書というのか」 

 新しい私の【思考】の始まりである。私はそれまで、私が良書と考える本を「良書」としており、そこに何の疑いも持たなかった。だがここに至り私は初めて「良書の定義・基準ていぎ きじゅん」を考えさせられた。そのとき真っ先に私の心にひらめいたのは、「よい本」とは人によって違うのではないか、ということである。

 人がある本に出会い、読書によって何らかのよい結果が生まれたとき、その本は「良書」となるのではないだろうか。
 「読んで楽しかった」「明るい気持ちになった」「勇気が出た」「知らなかったことを知れて、ためになった」「しみじみと人の心の温かさに触れた」「大笑いをして悩みが消えた」「これからどうしていけばよいか、よくわかった」など、読書によってそのような体験が得られたならば、その本がその人にとっての「よい本」なのである。私は恥ずかしくも、その当然をここで初めて知った。
 私が推奨すいしょうした本を読んだ少女が、「面白くなかった」という感想を持ったとしたら、「私が良書としていた本」は、少女にとって「良書ではない」ということである。私は今に至り、この至極当然なことを新たに知ることになった。それとともに、「誰よりも多く読書をしてきた」という私の自分勝手な、不遜ふそんなる心にも思い至った。
 さらに私の【思考行為】は進んだ。

 これも極めて当然のことであるが、児童図書館、学校図書館、市立(公立)図書館など、【図書館】というものの偉大さに思い至ったのである。
 「良書は人によって異なる」が、それでも大別して「ためになる良書」「ためにならない悪書」は存在するであろう。また時代により、また年齢により、「良書の基準」は違ってくるであろう。
 その中で図書館には、時代を越え、年齢を越え、立場や状況を越えて、図書館員を中心とした多くの識者が長きにわたって分析、整理してきた知識の集積がある。今の子どもたちはどんな本を喜ぶのか、どんな年齢の人がどのような本を求めているのか、などについて「体感的ながら、より普遍的な良書の基準」に基づいて図書館は存在しているのである。特にロングセラーを続けた本、長き多様な時代の試練を乗り越え生き続けている本、つまり「古典・古書」は、「良書」としてどの図書館にも収蔵されている。そして……

 新たなる私の古典・古書への読書意欲も、こうして高揚されるのである。

(参考図書)『哲学がはじまるとき―思考は何/どこに向かうのか』著者・斎藤慶典(2007年 ちくま新書)

著者プロフィール

堰免 善夫 (せぎめん・よしお)
長野県生まれ。中央ゼミナール(東京・高円寺)で国語科講師として活躍。小論文、現代文を担当し約40年間勤務。中央ゼミナール監事・役員・小論文主任講師の他、大学新聞社就職コンサル塾副塾長、東京国際学園特別顧問を兼任。
近年は全国の高等学校での高校生、保護者、高校教師対象の講演だけでなく、大学生向けの就職支援の講演会にも登壇している。


◇著書
『古の琴歌(いにしえのことうた)』 (小説作品集) 1987年5月
『知見の旅路』 (思索論文集) 1997年5月
誰にでも書ける 小論文学習の決定版 最も効果的な指導・学習法』 (大学新聞社) 2013年3月
『我が心の久遠・哀愁のヨーロッパ・憂愁の京都』 (紀行随想) 2013年12月

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