小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想 「人間らしいあり方・生き方」(兼好法師『徒然草』に学ぶ) 筆者:堰…

小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想

「人間らしいあり方・生き方」(兼好法師『徒然草』に学ぶ) 筆者:堰免 善夫
2018年10月1日(月)

私たち人間は、本当に人間であるのか。人間である私たちが「人間らしく」あり、「人間らしく」生きていないと、いずれ近い将来、【人間の座】は人間ではない「人造人間(アンドロイド)」に取って代わられることは間違いない。
 

 人工知能(A・I)は、特定分野においては、すでに人間の知能を完全に超えてしまった。A・Iを備えた人造人間(アンドロイド)やロボットは限りなく人間に近接きんせつし、究極の真核しんかく以外は、人間とまったく同じ、いや「誤り」を犯さない点では人間以上になるであろう。しかも、それは、この21世紀の後半中に実現されるのである。
 以上のことについては、本随想4月、および前回9月にて叙述、発信したところである。そこで今回は、人間が「真に人間である」とはどういうことか、人間が「人間らしくあり」、「人間らしく生きる」とはどういうことかについて考察したい。


 1.人間の人間らしさ
 人間は、みずから「生き方」を考える。人間は自ら「情感じょうかん」を有する。人間は自ら「学ぶ」ことができる。そして人間は自ら「判断」する。しかしロボットは、自ら「生き方を変える」ことはできない。自ら「喜怒哀楽」の感情を持ってはいない。自ら学び「教養」を身につけることはない。そしてロボットは。自ら「善悪」「公私」「美醜」の判断はできない。

 一方、人間を標榜ひょうぼうする者が「いかに生くべきか」を考えず、ただその日暮らしの毎日を過ごしている。哀しいのか嬉しいのか判然はんぜんとしない。また、他人の「喜怒哀楽」に無関心で、自ら学ぼうとせず、「教養」を持たない。そして自ら「善悪」「公私」「美醜」の区別ができない。過去・現在においてそのような者は「人間」とは言えず、ロボットに近いと言えよう。そして、近い将来、そのような者たちはロボットに取って代わられ、存在意義を喪失してしまうであろう。
 

2.人間の人間らしい生き方
 人類が「人間」として生き始めた約2500年前、ドイツの哲学者・精神病理学者のカール・ヤスパースが『枢軸すうじくの時代』と呼んだ時代、インドでは、仏陀(釈尊ブッダ  しゃくそん)が仏教を展開した。その時代から、初めて人間は「生き方」を考え、その実践を開始した。
 釈尊は、宇宙生命は「成住壊空じょうじゅうえくう」を繰り返すとし、その思想を根底とした。また、古代インドでは、人生を第一期「学生期がくしょうき」、第二期「家住期かじゅうき」、第三期「林住期りんじゅうき」、第四期「遊行期ゆぎょうき」と四期に分けて考えられていた。日本に置き換えてわかりやすく言えば、第一期は、学校を卒業するまでの「学生期」、第二期は、就職し結婚して家族のために働く「勤労期」、第三期は、定年となり都会を離れて田舎の自然の中で暮らす「林住期」、そして第四期は、老後にいろいろなしがらみから解放され、趣味や旅行を楽しむ「遊行期」とする。これを基本に置いて、各期の目標に具体性を持たせ、計画を策定さくていし、それを目安に実践した生活を送り、人生に意義と価値を与えるのである。
 人間の生き方で一番重要なことは、生活における「けじめ」である。ところが、多くの現代人は、生活に「けじめ」がなく、曖昧あいまいみち漠然ばくぜんと歩み続ける。ゆえに、現代人は不安を覚えるのである。
 人間にとって最も大切なことは、「いかに生くるか」であり、その「いかに」を自己の中で具体化していくことなのである。言うまでもなく、人造人間アンドロイドやロボットは、「いかに生くるか」など考え得るはずはない。だから重ねて言うが、「いかに生くるか」を考え、実践しない者は、ロボットと同じであり、やがてロボットに追い抜かれるであろう。
 

3.人間の人間らしい情感
 鎌倉時代の文人・随筆家、兼好法師けんこうほうし吉田兼好よしだけんこう/1283年頃生〜1352年頃没)は、『徒然草』(中世・鎌倉期に成立。序段と243段から成る。日本三大随筆の一つとされる)の冒頭部分で、「人間としてこの世に生まれてきた以上…(中略)、いちばん願わしいことは【なまめかしく】あるということである」と記している。【なまめかしく】とは、現代語の「つやっぽい」「あだっぽい」との意味ではなく、「抑制よくせいされた美しさ」「品がある美しさ」、要するに【おくゆかしさ】のことである。
もとより、人間は自ら「喜怒哀楽きどあいらく」の感情を有する。しかし、それは、犬や猫など他の動物でも持っている。ところが、「奥ゆかしさ」は人間だけの情感である。無論、ロボットには自ら「喜怒哀楽」の感情を有することはない。ましてや「奥ゆかしい」ロボットなどは存在しない。
 この「奥ゆかしさ」の情感、美学こそが、『徒然草』の全編を貫く主題なのである。敷衍ふえんしてさらに言えば、兼好にとっては「奥ゆかしさの美」こそが【善】であり【正しい】ことなのである。それが人間の人間らしいことの情感であると兼好は主張する。ゆえに彼にとっての人生の指針は、美学と「奥ゆかしさ」そのものを、どのようにして身につけるか、ということになる。
 そして、それは人間としての「教養が備わっているか否か」に尽きるのである。


4.人間の人間らしい教養
 ロボットは、自ら主体的に学ぶことはない。人間は自己の意思により「学ぶ」ことができる。そして「人間が自ら主体的に学ぶ」その目的は、「教養を身につける」ことである。確かにロボットでも、人間に与えられたプログラムにより学ぶことはできる。ディープラーニングの技術も進んでいる。近い将来、人間以上の「知識」を身につけることは可能であろう。
 だが、ロボット自らが「教養」を身につけることはない。人間個々の「教養」の集大成が、国家民族レベルの「文化」となる。だからロボットは、「文化」を創ることなどできようはずがない。

 兼好は『徒然草』でさらに言う。どのような人間が「よき人間」であるか。「よき人間」すなわち「理想的な人間」とは、「知識」ではなく「知恵」があり、「教養を身につけた者」、少なくとも「教養を身につけたいと心掛けている者」のことである。そしてそれは、各々おのおのが【向上心】を持てばできると言うのである。決定的なことは、その「身につけた【教養】がどのような姿で外にあらわれるか」である。その結論こそが【奥ゆかしさ】なのである。

 『徒然草』第137段のあまりにも有名なくだり“花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは…”をはじめ、兼好はことごとに「おくゆかしき振る舞ふ まい」を説く。「桜花は盛りだけ、月は皎々こうこうたる満月だけをよしとして眺めるものではない」「満開の花より、これから咲こうとするこずえ、あるいは花が散りきった後の庭の風情を眺めることの方がむしろ味わい深いではないか」「雨の夜の雲隠れの月にも風趣が感じられ、まことによいではないか」という。
 そのように味わえるのが「奥ゆかしき人間」であり、よき人であり、真の教養人であると、兼好は静かにも強く主張するのである。


5.人間の人間らしい判断
 正しく「善悪」「公私」「美醜」の判断ができる人は、「よき人」すなわち「人間として教養がある」「奥ゆかしき人」である。ここにおいて「教養」に基づく「奥ゆかしき判断」が最も重要な点である。
 「善悪」「公私」「美醜」を当てはめたデータをプログラミングしておけば、ロボットにも厳正なる判断をさせることは可能であろう。だがロボットは、まず何のプログラミングもなしに、「自ら【判断】すること」は決してできない。ましてや「奥ゆかしき判断」などは絶対に不可能である。
 「奥ゆかしき判断」は、人間の究極のきわめて人間らしい判断である。あえて例えれば、江戸時代の南町奉行・大岡越前守おおおかえちぜんのかみの逸話にあるような「大岡裁おおおかさばき」に見るが如きである。法の厳守よりも「思いもよらない智恵」による「人々の心を熱くする見事な判定」である。
 杓子定規の法規裁定ならば、プログラミングしておけばロボットにもできるかもしれない。しかし、人の心の機微きびに触れる極めて人情味あふれる判断は、ロボットには決してできない。
 「善の中にも悪はあり、悪の中にも善はある」「どんな人間にも公的部分と私的部分がある」そして「美の中にも醜があり、醜の中にも美がある」そして、「誤りがあるからこそ人間と言える」のではなかろうか。

 
6.人間とロボットの共生社会
 人間とアンドロイド、人間の心と人工知能が共生する社会が理想である。人間は人間を生む。そして人間はロボットを造る。しかしロボットはロボットを造れても、生むことはできない。まして、ロボットが人間を生むことは決してできない。だからロボットがどんなに限りなく人間に近づくことができても、人間自身になることはできない。今後、汎用人工知能は人間の能力を超えるであろうし、超えてもよい。人間にできないことをロボットがやってくれるなら、こんなによいことはあるまい。
 科学者が「将来、ロボットは必ず人間を超える」と言うことも、多くの人間が「ロボットが人間を超えることなどあってはならない」と言うことも、どちらも誤りだと私は考えている。宇宙の中には「超人間的」なことなど、幾らでもある。
 そもそも、人間の心と人工知能、人間とアンドロイドを対立的に考えること自体、間違っている。人間は人間らしく、ロボットはロボットらしくあればよいのである。そして両者は、「よきパートナー」として、「共存・共生」関係にあるべきである。
 
 兼好の『徒然草』は語る。「人間の人間たるゆえんは、まず人間は不完全なものであり、世の万物は、うつろいゆく流転るてんの中にある。桜花はいつも咲き続けなくてよい。やがて咲くから、やがて散るからこそ美しい。不完全な美を、人間の心がおぎないゆくところに【奥ゆかしさ】が生まれる。逆に、不完全な人間は、宇宙の万物に補われて充足じゅうそくする。【生生流転せいせいるてん】の様をありのままに受け入れ、それ自体に美を感ずる、それ自体が人間たるということである」と。

 この流転の相るてん そう、移ろいゆく常ならずの姿を「美しく感ずる」、それを「無常」と呼ぶ。その「無常観」こそ、「人間本然の真核」なのである。これは、ロボットに関しても同様である。人間の不完全さを、ロボットにより、人工知能により補い、それによる充足の心を持つことができれば、それは人間らしい「奥ゆかしさ」に通じる。一方、ロボットのロボットたるゆえんは、「不変」にある。ロボットの世界は、「ロボット自体もロボット環境も、全て移ろうことはなく、流転してはならない」のである。

 人間の究極の問題は「生老病死」である。その解決のためにこそ、古来より宗教の存在意義がある。一方、ロボットは「不老不死」であり、「不病」でもあり、「不生」でもある。前回で記述したが、汎用人工知能やアンドロイドを研究する科学者たちは、「いずれ【不老の人間】を造ることができるだろう」と確信ある予知見をしている。しかし、それはあくまで「人間が不老になる」のではなく、「人間でない【人間のような何者か】が不老を獲得した」と言うが妥当である。
いずれにしても、ロボットはあくまでロボットであり、人間はあくまで人間である。その両者が互いに尊重し、相互扶助そうごふじょする美しいパートナーシップを構築することが最も正しい、との結論を私はいだいている。その時、絶対に忘れてはならないことは、「人間はあくまで奥ゆかしくあること」である。
 その生き方こそが、「人間がロボットから敬愛される人間らしい生き方」であると、私は今静かに、その思いをかみしめている。

著者プロフィール

堰免 善夫 (せぎめん・よしお)
長野県生まれ。中央ゼミナール(東京・高円寺)で国語科講師として活躍。小論文、現代文を担当し約40年間勤務。中央ゼミナール監事・役員・小論文主任講師の他、大学新聞社就職コンサル塾副塾長、東京国際学園特別顧問を兼任。
近年は全国の高等学校での高校生、保護者、高校教師対象の講演だけでなく、大学生向けの就職支援の講演会にも登壇している。


◇著書
『古の琴歌(いにしえのことうた)』 (小説作品集) 1987年5月
『知見の旅路』 (思索論文集) 1997年5月
誰にでも書ける 小論文学習の決定版 最も効果的な指導・学習法』 (大学新聞社) 2013年3月
『我が心の久遠・哀愁のヨーロッパ・憂愁の京都』 (紀行随想) 2013年12月

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