小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想 聖書(旧約聖書・新約聖書)の世界 筆者:堰免 善夫

小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想

聖書(旧約聖書・新約聖書)の世界 筆者:堰免 善夫
2017年6月1日(木)

1.聖書の成り立ち
 聖書の原文を記した言語は、旧約聖書のほとんどがヘブライ語で、新約聖書はギリシャ語となっている。
 カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)とは、歴史上長きにわたり、主張を異にして争ってきた。しかし、キリストを信じる者としての根本認識一致の観点から、旧・新共同作業としての「聖書翻訳」が世界各地で行われるようになった。
 『日本語訳聖書』の歴史も古い。1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸、初めて日本でのキリスト教布教が始まった。その時、ザビエルはラテン語の聖書と共に、日本語訳の『マタイによる福音書ふくいんしょ』の一部を持ってきたと伝えられている。1613年(江戸開幕後10年)には、カトリック宣教師達により『日本語訳新約聖書全書』が京都で刊行された。江戸幕末には、ローマ字の生みの親であるジェームス・C・ヘボン博士が来日、聖書の日本語訳に尽力した。
 1887年(明治20年)、日本聖書協会が、最初の日本語訳『旧・新約聖書』を出版した。それから100年、1987年(昭和62年)に至り、ついにカトリック・プロテスタント共同翻訳の聖書『聖書(旧・新約聖書全巻および旧約聖書続編)・新共同訳』が完成した。本稿において『聖書』と言う場合は、これを指すこととする。

 さて、果たして、その翻訳は完全なりしや?
 『聖書』は「神の言葉」である。「私の仕えているユダヤ(現・イスラエル)の神、しゅは生きておられる」。『エリヤ物語』に見られるこの言葉こそ、この『聖書』の全容を表している。
 『聖書』は「神と人間との歴史における出会いの物語」である。舞台は東地中海諸国。アブラハムとその子孫を中心に千有余年に及ぶ「唯一神への信仰の物語」であり、その「神体験の集大成」が、必要に応じて、ヘブライ語、アラム語、ギリシャ語で記された。
 イエス・キリスト出現以前の「神とのふるい契約」を中心として書かれた『旧約聖書』に対し、「イエスによる新しい契約」を中心として書かれた諸書を『新約聖書』としている。旧約、新約の「約」とは「契約・約束」のことである。
 『新約聖書』の誕生により、『旧約聖書』に取って替わったとはいえ、新約を真に理解するためには、旧約を知ることが不可欠である。あたかも「大乗仏教」を真に理解するためには「小乗仏教」を、「実教じっきょう(法華経)」を真に理解するためには「権教ごんきょう(法華経以前の華厳けごん経・阿含あごん経・方等ほうとう経・般若はんにゃ経)」を知ることが不可欠であるが如きである。旧約も新約も、両者は同一の神について語られている連続の書であるがゆえに。

2.旧約聖書
 『旧約聖書』の中心は最初の『モーセ五書』である。その第一書『創世記』には、天地万物、人間、ユダヤ民族の起源が述べられる。そして、「神の言葉」を伝える、アブラハム、ヤコブ、ヨセフなどの偉大な先祖の預言者達が紹介される。
 第二書『出エジプト記』には、奴隷状態であったユダヤの民が、神により解放され、モーセに率いられてエジプトから脱出する。モーセはシナイ山で神と契約を結び、約束の地カナン(現・イスラエルのエルサレム存在地)を与えられることが記されている。
 第三書『レビ記』では、神による救いの体験に基づき、民族の宗教的・民事的法規などが記される。続く第四書『民数記』、第五書『申命記』は、いずれも「約束の地」に入る際に守るべき「神の律法」を述べ、神への誠実を説く「勧告の書」となっている。

 モーセ五書以後の旧約聖書は大別して2種の『ユダヤ史』からできている。
 『ヨシュア記』(ヨシュアはモーセの後継者)『士師記ししき』『ルツ記』『サムエル記』『列王記れつおうき』の系列と、『歴代誌』『エズラ記』『ネヘミア記』『エステル記』の系列である。
 旧約聖書の配列は、この順列で構成されている。これらの史記の最後の『ヨブ記』は旧約聖書中の最も劇的(ドラマチック)な部分であり、その主題は「利益もないのに神を敬うだろうか」である。
 この後、『詩編しへん』『箴言しんげん(ユダヤの王ダビデの子ソロモンを中心とした格言集)』『コヘレトの言葉(コヘレトとは伝道者の意)』『雅歌がか』と続き、さらにその後は『イザヤ書』『エレミヤ書』『エゼキエル書』『ダニエル書』と続く。これらはすべて「預言者の説教の集大成」である。この4つの預言書の他に『ホセア書』以下に他の預言者達の説教を伝える短い文書(12文書)が加えられ、それを『十二小預言書』と呼んでいる。以上が『旧約聖書』の概略である。

3.新約聖書
 来たるべき救いのしゅ救世主きゅうせいしゅは「メシア」と呼ばれている。ギリシャ語では「キリスト」と言う。『新約聖書』の時代になると、キリスト教者はイエスを「約束の救いの主」と信じ、この称号をイエスに付し「イエス・キリスト」と呼んだ。
 初期キリスト者は、イエスこそ、その言葉、行為、死、そして復活を通して、神がその民に与えた「新しい契約を実現した」者と見なした。
 「神はかつて預言者達によって神の言葉を伝えた。この時代、新しい時にあたり、神はその御子みこによって私達に語られた」となるのである。
 『ヨハネによる福音書』は、この神の独り子ひと ご・イエスを紹介して「私を見る者は、私をつかわされた方を見るのである」とのイエスの言葉を伝えている。
 『新約聖書』は、最初に4つの『福音書ふくいんしょ』、次に『使徒言行録』しとげんこうろく、ついで『21の手紙』、最後に『ヨハネの黙示録もくしろく』の計27の文書によってできている。
 『新約聖書』の中心は、最初の『マタイによる福音書』『マルコによる福音書』『ルカによる福音書』『ヨハネによる福音書』の4つの福音書と、最後の『ヨハネの黙示録』であろう。
 福音ふくいんとはイエスがもたらした「決定的恵み」のことであり、『福音書』はイエスの生涯においての行い、教え、そして、死と復活を語る。イエスの伝記というよりも、イエスによって生きた人々の証言の記録である。
 『使徒言行録』は『ルカによる福音書』と同じく、福音記者のルカによって著されたものである。「イエスがもたらした救いの告知」が、イエスの弟子(使徒)であるペトロ、パウロなどにより、エルサレムから、シリア、ギリシャ、ローマまで広がる経過を描いている。
 21の手紙のうち、最初の『ローマの信徒への手紙』から『ヘブライ人への手紙』までの14通は、いずれもパウロが書いた手紙である。パウロが創設した諸教会、ローマのキリスト教徒あるいはパウロの協力者にあてられたものである。
 よく知られる『ヘブライ人への手紙』の11章には「信仰とは何か」「信仰のすばらしさ」が語られている。
 パウロの手紙14通の後は『ヤコブの手紙』『ペトロの手紙T・U』『ヨハネの手紙T・U・V』『ユダの手紙』の計7通である。『ペトロの手紙U』と『ユダの手紙』は、「異端に対して純粋な信仰を保つこと」を求める。『ヨハネの手紙T』では、キリスト教の本質的教えである「愛」について語り、『同U・V』では、イエスが「神の子(の受肉)であること」を否定する「悪人」には、決して惑わされてはならないといましめる。
 そして、『新約聖書』の最終章『ヨハネの黙示録』は「人間を救う神の計画が、イエス・キリストの輝かしい再臨によって、どのように完成されるか」を象徴的に描いている。それは、迫害下に苦しむキリスト者を励ますためにである。
 以上、これらが『新約聖書』なのである。

4.聖書の光と闇
 『聖書』は、考えれば考える程、実に不思議な「書」である。聖書全書のうち旧約1502ページ、旧約続編382ページ、新約480ページであり、キリスト教にとって最重要な『新約聖書』は、全書のうちの約25%、1/4にすぎない。しかし、この新約を中心にした『聖書』は、世界中で25億冊も読まれている、世界一のベストセラーである。
 さらにキリスト教自体も実に不思議である。イエス・キリストが処刑されてのち、400年もの時を経てから「キリスト教」は復活し、処刑をそそのかしたローマそのものがキリスト教を公認、国教とする。それ以後、キリスト教は欧米諸国に急速に流布るふされていく。そして現在、キリスト教世界遺産文化の光輝こうき燦然さんぜんたるものがある。
 キリスト教が果たした世界人類への影響、貢献はまことに大なるものがあり、それは何人なんぴとも否定できないであろう。不思議ではあるが、キリスト教はその聖典『旧・新約聖書』の「光」に照らされて栄光の歴史を刻んできたと言えよう。
 しかし、もっと素朴な不思議は、実は『聖書全書』における「闇」にある。この闇は「ユダヤの闇」「イエスの闇」「神の闇」と言ってもよい。
 「ユダヤの神」は「ユダヤ教を信じるユダヤ人の中に生きている」が、しかし、そのユダヤの国はもはやなく、イスラエルとなり、ユダヤ人、ユダヤの民は、この『旧・新約聖書』の中では、生きていない。ユダヤという言葉は、聖書の中から全く消え、すべてイスラエル人、イスラエルの民と表記されている。ユダヤ教徒はキリスト教では異端者いたんしゃなのである。そしてユダヤ人は、今なおキリスト教国からは迫害されている。

 『旧訳聖書』の神も、『新約聖書』の神も、全く同一の「唯一神」ではないのか。さらに『新約聖書』におけるイエス・キリストは、あくまでも「神の御子」であり「神そのもの」ではない。その「旧新同一神」の「神の言葉」を旧約の預言者が伝えれば、それは異端となり、イエス・キリストが伝えれば正統と言うのであろうか。

 いや、「不思議な闇ふしぎ  やみ」はもっと深い。「神の言葉を神の子イエス・キリストが伝える」と言っても、全てそれは、イエス自らの直接の言葉ではない。『新約聖書』の全ては、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、ヤコブ、ペトロ、そしてパウロなどの使徒(弟子)が「イエスの言葉」として伝えたものである。キリスト者は全て「神の言葉をイエスからではなく、又聞またぎきのまた、又聞またぎき」により伝えられるのである。
 旧約の預言者・新約のイエス以外「神の言葉」を聞いた者はいない。さらに、12使徒を中心としたイエスの直接の弟子以外に「イエスの言葉」を聞いた者はいない。少なくとも『聖書』ではそうなっている。
 『旧約聖書』のことはおいても、『新約聖書』の中になぜ、『イエスによる福音書』がなく、『イエスの手になる手紙』がなく、『イエスの黙示録』がないのか。そして、なお、『イエス自身の論文』『イエス自身の箴言しんげん集』がないのであろうか。

 これらの不思議はさらに深く大きい「謎」を生む。それは「神(唯一神)」の「実体」とは何かである。今もって「神は見えない」「キリスト教の神とはどのようなものを言うのだろうか」さらに「イエスは神の子となぜ言えるのだろうか」。
 実はこのような疑問は「信仰の無い者」の言うことであることはわかっている。これらは全て「信じる」ことにより成立することだからである。
 正直に告白すれば、筆者の私は「いろいろ考えずに、ただ信じる」ということが好きな性格である。「現実よりも理想を」「事実よりも真実を」「実体よりも観念を」重視する価値観を愛する性癖である。それ故にキリスト教は嫌いではない。どちらかと言えば、キリスト教には好意的である。
 しかしながら、このような「聖書の世界」は、とても信じることはできそうもない。

 私は、2016年4月より現在までキリスト教系の高等学校で毎週金曜日に教鞭きょうべんをとってきた。朝の礼拝では毎回、「聖書」を読誦どくしょうし、「讃美歌さんびか」を合唱してきた。個人的には、2016年の1年間をかけて『聖書全書』を読み通した。
 「讃美歌の世界」は清らかで美しい。しかし、「聖書のキリスト教世界」を基盤とした学校というものは、あまりに「現実対応が劣弱」で、「非論理的・非科学的」である。
 「理想が高い」のはよい。しかしその理想は、あくまで「現実の土台の上に立脚した理想」でなくてはなるまい。「理想の現実化」によって「力強い現実対応」を成し、必ず「実証的結果」を残さねばならない。
 それを生徒達に伝えることは決してキリスト教他者には求めまい。誰あろう。私自身が果たすべき役割であると、私はひそかに決意している。

〈讃美歌・第二編〉
第60「望みとよろこび」(入学式・始業式に歌われる)
3.はるかな未来に 期待をかけて
 雨にも風にも ひるむことなく
 かがやく夢を かちとるために
 ちからをあわせて ひたすら励もう

著者プロフィール

堰免 善夫 (せぎめん・よしお)
長野県生まれ。中央ゼミナール(東京・高円寺)で国語科講師として活躍。小論文、現代文を担当し約40年間勤務。中央ゼミナール監事・役員・小論文主任講師の他、大学新聞社就職コンサル塾副塾長、東京国際学園特別顧問を兼任。
近年は全国の高等学校での高校生、保護者、高校教師対象の講演だけでなく、大学生向けの就職支援の講演会にも登壇している。


◇著書
『古の琴歌(いにしえのことうた)』 (小説作品集) 1987年5月
『知見の旅路』 (思索論文集) 1997年5月
誰にでも書ける 小論文学習の決定版 最も効果的な指導・学習法』 (大学新聞社) 2013年3月
『我が心の久遠・哀愁のヨーロッパ・憂愁の京都』 (紀行随想) 2013年12月

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