この2年ほど、研究指定を受けた都内の公立中学校に
アドバイザーという立場で関わってきた。
研究テーマは、生徒の自己表現力の育成である。
先日は、これまでの取り組みと研究の成果を披露する研究発表会も行われた。
この学校の取り組みに伴走しながら、僕自身が実感させられたことがある。
単純化してしまえば、「自己表現力を育む」という教育的にも、
実は両義的な方向性がありそうだということである。
メディアを中心に、昨今では、「コミュ力」の必要性を指摘する言説が跋扈している。
企業が新卒を採用する際の選考基準にも、
この10年あまり「コミュニケーション能力」が最上位を占め続けている。
こうした文脈に照らして、自己表現力の育成を位置づけると、どうなるだろうか。
やや極端に言うと、こんなふうにならないだろうか。
自己表現力を育てるとは、すなわち「発信力」の育成であり、
チームで働くための「協働する力」、
顧客に対応する際の「訴求力」や「交渉力」を伸ばすことである、と。
さらには、そうした「コミュ力」を持つ者が評価されるのは当然であり、
そうでない者は、不遇な処遇を受けても、自己責任で受忍するしかないのだ、と。
確かに、社会の必要やビジネス環境の要請を無視するわけにはいかない。
しかし、それに従うだけの「適応」主義に、教育の営みが加担していていいのだろうか。
自己表現やコミュニケーションの重要性は否定しないとしても、
それが得意でない子どもや若者は、いくらでも存在する。
そんな彼/彼女らが、びくびくしてしまうような教育でいいのだろうか。
本来、自己表現とは、子どもが「表現する」ことを通じて
(必ずしも言葉で「発信」しなくても、自らの表情や身体を
他者や世界に「投げ出す」ことを通じて)、対象世界との関係をつかみ、
他者との応答関係に入り、自分自身の変化・成長を実感する営みである。
表現するとは、その子らしい「自分づくり」の営みであり、
いつもつねに、ポジティブで、前向きな行為ばかりである必要もないのである。
冷静に考えれば、子どもの自己表現は、大人や教師が促すものでも、
引き出すものでもない。子ども自身の側から、自ずと「立ちあがってくる」ものである。
そうであれば、コミュ力の育成を、性急に、効率的に求めてくる要請に従うのではなく、
一歩身を引いたところで、何が教育的なのか、何がその子どもにとっての
「自分づくり」なのかを、しっかりと考えられるようにしたい。
【プロフィール】
教育学研究者。
1996年から法政大学に勤務。
2007年キャリアデザイン学部教授(現職)。
日本キャリアデザイン学会理事。
著書に、『高校教育の新しいかたち』(泉文堂)、
『キャリア教育のウソ』(ちくまプリマー新書)、
『夢があふれる社会に希望はあるか』(ベスト新書)等がある。
