小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想 「進化とは何か。進化論の意味するもの」(ダーウィン「進化論」をめぐ…

小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想

「進化とは何か。進化論の意味するもの」(ダーウィン「進化論」をめぐる諸問題) 筆者:堰免 善夫
2016年7月1日(金)

 人類の長い歴史の中で、それまでの世界観を全く変えてしまった科学革命は、アイザック・ニュートンの「万有引力の法則」とチャールズ・ダーウィンの「自然しぜん淘汰とうた」である。
 どちらも、人類世界史の2大クライマックスとなる画期的な知見ちけんであった。しかし、人間社会に与えた影響という点においては、ダーウィンの著作『種の起源〈On the Origin of Species−“On the Origin of Species by Means of Natural Selection”〉』は、ニュートンのその著、『プリンキピア〈Principia〉“自然哲学の数学的原理”』以上に革命的であった。人間の思想に、これ程の影響を与えたものは、人類の歴史上、他に類例を見ない。
 ダーウィンの「自然淘汰しぜんとうた“生物の環境適応増大”」―「進化論〈Evolution Theoryエボリューションセオリー〉」は、それまでの「神による創造」という考え方を、「創造」は「行為」ではなく「自然の出来事の、秩序ちつじょある継起けいきを通じて作用する、中断することのない連続的な過程」であることを明かすことによって、根本からひっくり返してしまったのである。
 ここでは世界人類とその思想・宗教(キリスト教)に強烈な衝撃を与えた『種の起源』の出現と、その影響を辿たどりながら、一体「進化とは何か」「進化とはどういうことを言うのだろうか」といった、進化の意味するものを考察したい。そして、その考察の結果、これまた衝撃的事実が浮上してくるのである。


1.ダーウィン『種の起源』以前
 『種の起源(1859年)』以前のキリスト教世界の人々は「すべての生物は、数千年程前、神によって突如として創造されたもので、創造以来、その姿かたちは少しも変わっていない」と信じていた。それ故に「生命が数億年もの昔に、極めて簡単な生物から始まり、それが次第に発達して、今日知られているあらゆる種類の動植物ができあがった。人類も下等生物から類人猿のような生物を経て発達してきたものである」などとは全く想像もしていなかった。
 しかし、以前から、人類が動物の子孫ではないかとする考え(動物を祀る原始宗教に示される)や、動植物が明確に別々の種類、―「しゅ〈species〉」―に分かれている、との理解は存在していた。
 種と種の中間に位置するもの(人魚)などは見いだされなかったが、いろいろな「種」を、ある順に並べることはできた。つまり、動植物の種類相互の間の関連に、何か基礎となる、あるプラン(法則)が潜んでいることは推察されていた。
 たとえば「自然物の階梯かいてい(はしご)」〈Scala・Nature〉という考え方である。その考え方の最終的で最も完璧なものは、スイスの博物学者、シャルル・ボネによるものである。

 “鉱物(無生物)→石綿(無生物と生物の中間種)→珊瑚サンゴ→キノコ→植物→ポリプ→ミミズ→貝類→ナメクジ→蛇→魚→ 飛魚トビウオ(魚と鳥の中間種)→鳥類→四足獣→猿→オランウータン→人類”

 このような人類を頂点とする、無生物と生物の連続した系列下の、あるプランをボネは、一種の進化論的な方法で説明しようと試みていた。そして、1800年ごろには、このプランの根拠が「生物の構造及び関連」にあること、及び「宇宙とその生物との基礎になっている、ある壮大な目論見もくろみ」にあることが考えられていた。この法則の如き示唆しさは「種は宇宙の理想的なプランの一部ではないか」との啓示であった。
 1809年に至り、フランス人科学者、ジャン=バティスト・ラマルクにより、初めて包括的な「進化的論」がうち立てられた。彼はその著書『動物哲学〈Philosophie・Zoologie〉』において「すべての多種多様な生物は、もっと簡単な形の生物から由来したものである」ことの説明を試みた。
 しかし、ラマルクが唱えたのは、あくまで仮説に過ぎなかった。科学的思想の重要な原則は「事実を説明するのに、どうしても欠かせぬこと以外の仮説を設けてはならぬ」である。
 その原則の内になかったラマルクの仮説に対しては、だから「今日でも簡単な形の生物が、そのままの形で残っているのは何故なにゆえか」との反論が成立する。
 その反論への説明としてラマルクは、「用不用説ようふようせつ」をもってした。たとえば「ジラフ(キリン)の先祖は、樹上の葉を食べるために頭を届かせようと努めたので、首が伸び長くなった。そして首を長く発達させる傾向が子孫に遺伝されるようになった」というわけである。
 ところが、進化の要因を用、不用による発達とするラマルクの説は、近代地質学の父・チャールズ・ライエルから手厳しい批判を受けることになる。
 ライエルは、その著『地質学原理〈Principles of Geology〉』において、化石種から現存種を見分けられる事実、つまり地質学分類の科学的基礎は、ひとえに「種」の特徴が驚くほど「恒常的」であったという事実を示すことによって、ラマルクの「すべての生物の変化」を批判したのである。こうして、ラマルクとライエルの対立軸が「生物進化の道」、すなわちダーウィンの「進化論」が出現する道の準備・用意となったのであった。

2.ダーウィン『種の起源』の出現
 1831年、大英帝国海軍の測量船ビーグル号の艦長・フィッツロイは、世界一周の同行者として、若き生物学者ダーウィンを選んだ。チャールズ・ダーウィンは、意外なことに小・中学校では全くの劣等生であり、学校から登校を拒絶されたりもした。しかし、知識欲は誰よりもあり、独学により実に多くの知識を身につけた。彼の才能は遅れて開花し、フィッツロイから「生きた図書館」ともくされるまでになったのである。
 ビーグル号での世界就航中にダーウィンが愛読していたのは、ライエルの『地質学原理』であった。当時ヨーロッパにおいては「産業革命」という社会的変革期を背景に、石炭の採掘、運河の掘削くっさくなどの必要性と相俟あいまって、「地質学」は、最も注目された新しい学問であった。
 ダーウィンは、この新しい科学としての地質学に深い興味と関心を示し、その研究に没頭していた。ダーウィンの「進化論」は、正確に言えば、その根底に、生物学よりもむしろ、地質学の知見を有していたと言えよう。
 ライエルの自然観は「斉一せいいつ説」〈uniformitarianismユニフォミタリアニズム〉に貫かれており、その概要は「地球上では、過去においても、現在と同様な自然法則が成立していた」というものである。ゆえに、ライエルの考えは「天地創造説」「ノアの方舟説」などを主唱する、当時支配的であったキリスト教会から危険思想として異端視いたんしされるほど、その影響は大きいものであった。

 この「斉一説」が、何ゆえに「変化を伴う進化論」の基盤きばんになり得たのであろうか。
 それこそ、ダーウィンにとって画期的な、ガラパゴス諸島での大発見が、その動機どうきを決定づける。
 南アメリカ西岸から600マイルの距離にある、太平洋上のガラパゴス諸島での体験は、彼にとって手に汗握る程の興奮であった。その島々では各々特有な「特殊動物種」と「奇妙な化石種」との出会いがあった。特に「かめ〈tortoise〉については、「共通の祖先から由来したにもかかわらず、各々の島に隔離されると、違ったものになるのはなぜなのか?」「なぜ“種”は島ごとに差異を持って創造されねばならなかったのだろうか?」この疑問こそ、それから30年後の『種の起源』を生むことになるのである。
 もはやお分かりであろう。ダーウィンは「進化」の解決のカギは「恒常こうじょうの上になお顕現けんげんされる変異の研究にある」と、ついに悟達ごたつするのである。

 時にダーウィン22歳、その後、家畜の飼育、栽培植物などにおける品種改良による差異、変異の研究に打ち込み、そして「遺伝いでんする変異へんいの証拠」と「自然淘汰しぜんとうたによる変種の誕生」の手続きを追究することとなる。
 さらに、進んでマルサス『人口論じんこうろん』の研究に入り「出生率は、人類の数を維持するのに必要な割合より大きいこと」を明らかにし、従って「人口はいつも増加の傾向にあるが、この増加は、飢饉ききん疾病しっぺいなどに抑制されている」ことが、生物一般にも適用されることを発見するのである。ダーウィンはここにおいて、ついに新しい観念「環境への適応による自然淘汰」を導入するに至り、52歳で『種の起源』を発表する。

 「自然淘汰」とは「まわりの特別な環境に最もよく適応した種のみが「生存競争〈Struggle for Existence〉」に打ち勝って生き延びること」を意味する。この「自然淘汰理論」を土台にした『種の起源』においては「進化とは何か」についてダーウィンは、

@生物は種に属する各個体間に差異があり、生物は変異する。
Aその変異は遺伝される。
B生物は適度に繁殖するが、有害な環境のために、その数は不断に切りつめられる。
Cその結果として、最後に「環境に最もよく適応した変種」が生き延びる。

と主張し、こうして「種」は次第に進化していく、「進化とは何か」それは「環境適応増大」のことである、と結論づけた。

3.ダーウィン『種の起源』以後
 ダーウィンの『種の起源』は生物学のみならず、社会科学および一般思想にも画期的な影響を与えた。時を同じくして起こった“laissez‐fairレッセフェール”「成すに任せよ。行くに任せよ(経済的自由主義の標語)」の波に相乗し、「自由生存競争説」の「経済産業適用」となった。ダーウィニズムはキリスト教世界に衝撃的であったばかりでなく、社会科学一般にも転用され、「社会進化論〈Social Darwinismソーシャルダーウィニズム〉」を生むに至る。
 自由主義経済、自由主義産業は「生存競争」に勝つことにより「淘汰される」のが当然であり、それは必然のこととなる。「進化論」の悪用はさらに進み、「進化論的倫理説」まで生むに至る。道徳の起源を進化論にあてはめ、「生存競争」「適者生存」という、「進化の法則に従うことが、道徳の目的と一致する」とする説などが生まれるのである。
 日本においても、遅れて明治初期、この〈Evolution Theoryエボリューションセオリー〉は、哲学者にして帝国大学(現在の東京大学)第二代総長でもある加藤弘之かとうひろゆきにより『進化論』と訳された。加藤はそれまで「天賦人権論てんぷじんけんろん」を唱えていたが、「進化論」により「教育論」「東大論」を展開した。
 しかし、何より、進化論悪用の極みと言える衝撃的な事例は、ハーバード・スペンサー主唱の「進化主義」である。
 大英帝国全盛期、イギリス・エリザベス女王陛下・ヴィクトリア王朝の碩学宮廷学者のスペンサーは、その著『第一原理〈first principles〉(1862年)』、および『生物学原理〈principles of biology〉(1864〜67年)』により、「進化の原理」を基礎に置く、物質の結合、運動、発展などの諸法則を説き、それに基づき、生物、心理、社会、道徳などの諸現象を「進化論哲学」で統一的に解明しようとしたのである。その結果、恐るべき「白人支配論」を確立する。
 「生物進化とは複雑性増大に向かう過程」であるとし、さらに「複雑性の増大を進めることにより、進化〈evolutionエヴォリューション〉とは進歩〈progressプログレス〉を意味する」としたのである。この理論に基づき、白人を複雑性の最高位の進歩者と見なし、植民地有色人種は進化(進歩)の段階が低い者との断定に立って、白人優位の支配理論を打ち立てたのである。
 このスペンサーの「進化=進歩論」こそが、人種差別、民族間戦争の根本的原因を生み続け、その果てに、ゲルマン民族優性・ユダヤ民族劣性を唱えたナチス・ヒトラーのユダヤ人虐殺に至るのである。
 日本人もまた狡知こうちけ、白人種に対しては黄色人種の劣性を盾に取り、白人支配からの解放を大義名分に、日本民族よりも、漢、朝鮮、蒙古民族は下等として極東アジアを植民地化したのである。

 ダーウィンの「進化」はあくまで「環境適応への増大」であった。それをスペンサーは「進化」を「進歩」にすり替え、複雑性の増大を掲げて「高等→下等」「優勢→劣性」のたての関係に組み替えてしまった。
 これらの動きに反発したダーウィンは、52歳で『種の起源』を発表してから、73歳で亡くなるまでの20余年、ほとんど唯一人で「私の『進化論』において、高等とか下等とかは決して言うな!」と叫び続けていたのである。
 ダーウィンは、その生を終える時、「進化が進歩であるという考えは、人間の偏見の中で最も悪質なものである」と言い残して息を引き取った。


4.進化の意味するもの
 「生存競争」とは何であろう。「生存競争に勝ち残る」とは一体どういうことであろうか。競争には相手があり、他者と争い、他者を倒すことにより、自分が生き残る。一般的にはこれが「生存競争」に対する理解であろう。
 しかし、ダーウィンが言う「自然淘汰しぜんとうた」はそうではない。あくまで「適者生存てきしゃせいぞん」なのである。
 ダーウィンの「進化論」は、いついかなる時も、どんな場合も「個体」に対してである。つまり「生存競争」は、「個別的自己」にかかわるものであって、決して他者との関係について言及するものではない。自己自身が「環境に適応」できるか否かなのである。そうして環境に適応できた者だけが「自然淘汰」され「生き残る」のである。だから、「進化」とは「環境適応増大かんきょうてきおうぞうだい」をこそ言うのである。
 ここにおいて重大なることは「適応」だけではない。「環境とは何か」、「環境」の定義についても重大である。
 「環境とは、その人間が認知し得るすべての外的なもの(従って環境は個々人によって各々異なる)」である。そしてまた、逆に「環境は、認知し得る主体である人間個人に対して作用し、影響を与えるもの」でもある。要するに、人間が「環境を認知する」と共に、環境が「その認知を規定する」のである。いわく「教育環境が悪い」などである。最も顕著な例は「カメレオンは環境に応じて体の色を変える」の如くである。
 また、「孟母三遷もうぼさんせん」の故事にあるように「環境が人間を育てること」もある。「進化論」においては「人間の環境適応増大」が「環境の人間認知(影響)増大」と、不即不離ふそくふりの関係を形づくるのである。

 かくの如き、「人間と環境」の不即不離の関係について、ダーウィンの「進化論」以前に、正しく鋭く洞察していたのは、唯一、東洋仏教、釈尊(釈迦)の「法華経ほけきょう」である。東洋にも「進化論」に比肩、匹敵ひけん ひってきする英知があったということである。
 「法華経」の「方便品ほうべんぼん」には、「十如是じゅうにょぜ」という経文を中心に、「諸法実相論しょほうじっそうろん」が展開される。この論の中心核(コア)は「依正不二門えしょうふにもん」により直達じきたつされる。
 依正えしょうの「」とは「依報えほう」と言い、「依り所よ どころとなるむくい(因果いんが)の作用を与えるもの」つまり「環境」を言う。
 一方「しょう」とは「正報しょうほう」と言い、「正体」「正気」の如く「内心の因果により主体的な自己をあらわすもの」つまり「本人」を言う。
 「依正不二門えしょうふにもん(論)」では、「環境と本人」は別々の異なるものではあるが、「不二ふに」であり、決して「二つではない」と定義される。そして「環境」と「自己」は、どちらも「ほう」として因果の理法にのっとり、相互に作用しあう関係にある。要するに「環境により本人たる自己が創られ、また、自己により環境は変えられる」ということである。
 その根本原理は「人間」の成り立ちそのものにある。「人間」とは「人」の「あいだ」であり、その「あいだ」は「環境そのもの」である。そして、そもそも「人」とは、「/」と「\」が支えあって「つながる」ことにより成り立っているのである。

 東洋仏法における「進化論」は、「人と人」そして「他者としての人間を含む全ての環境」その「環境と自己」が、すべからく、当然のこととして「相互に支えあう」ことによって生存、発展するという「論」である。その時、支え合う(依存し合う「相依性そういせい」)作用の因果の法、そのすべての「諸法」が、それぞれに適応した姿で「実相じっそう」として現れる。それが「諸法実相しょほうじっそう」ということなのである。

 この、東洋仏法の「進化論」も、ダーウィンの「進化論」も、想い至れば、限りなく、現代人の我々を勇気づけ、励ましてくれる。「いかなる環境にあっても、その環境に適応していくこと」が、人間の「進化」であると。そして、いつも「他者と、自分以外のすべてのものと、支えあうこと」こそ、自己が進化して、生き残ることであると。そのことこそが、ダーウィンの「偉大な研究の成果」であると、我々は銘記めいきすべきであろう。

著者プロフィール

堰免 善夫 (せぎめん・よしお)
長野県生まれ。中央ゼミナール(東京・高円寺)で国語科講師として活躍。小論文、現代文を担当し約40年間勤務。中央ゼミナール監事・役員・小論文主任講師の他、大学新聞社就職コンサル塾副塾長、東京国際学園特別顧問を兼任。
近年は全国の高等学校での高校生、保護者、高校教師対象の講演だけでなく、大学生向けの就職支援の講演会にも登壇している。


◇著書
『古の琴歌(いにしえのことうた)』 (小説作品集) 1987年5月
『知見の旅路』 (思索論文集) 1997年5月
誰にでも書ける 小論文学習の決定版 最も効果的な指導・学習法』 (大学新聞社) 2013年3月
『我が心の久遠・哀愁のヨーロッパ・憂愁の京都』 (紀行随想) 2013年12月

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