小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想 芥川龍之介・その自死の意味

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小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想

芥川龍之介・その自死の意味
2017年9月1日(金)

 昭和2年(1927年)の夏は異常な暑さであった。
 乾ききった大地を、雨がたたき始めた7月24日未明、東京田端の自宅(澄江堂ちょうこうどう)において、35歳の芥川龍之介は、睡眠薬ヴェロナールとジャールの致死量を仰いで自殺した。

 芥川龍之介の自死は、ただの小説家の自殺ではない。もはや二度と現れない文壇の鬼才・天才の死は、さまざまに取りざたされたが、今もって謎は多く深い。なぜ死んだのか。芥川文学は彼の死にどのようにかかわっていたのか。そして、芥川の死には、どのような意味があるのか。影響は大きい。芥川龍之介の死は、筆者にとっても、私達多くの日本人にとっても、考えさせられ、学ぶことが多い。
 

1.自死の理由(遠因・近因)
 遺書は、文夫人、親友菊池寛宛ての他2通と「或旧友へ送る手記」の遺稿が枕元に置かれていた。この「或旧友へ送る手記」は親友久米正雄により新聞記者に朗読発表された。

「自殺者は大抵レニエの描いたように何の為に自殺するかを知らないであろう。それは我々の行為するように複雑な動機を含んでいる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。」

 この「ぼんやりした不安」とは何か。その真相がさまざまな人によりさまざまに探られ、さまざまに憶測された。多くの憶測がなせる共通の理由の第一は、精神障害に対する芥川の恐怖であるとしている。芥川の実母に精神障害があったため、芥川もいつかはその遺伝から精神に異常をきたすのではと恐れていたというのである。
 次の理由は多病である。芥川はまさに半病人の生活を送っていた。強度の神経衰弱(ノイローゼ)、胃アトニ―、痔疾、不眠症など。歌人にして精神科医師の斎藤茂吉さいとうもきち宛てに「アヘンエキス」を送ってくれるよう頼む程、毎日不安で眠れない夜を過ごしていた。
 次に世間的なわずらわしい多事である。妻の弟の結核、中学時代の親友の死、仲人した夫婦の離婚、姉の夫の鉄道自殺などが重なったこと。世俗的な煩瑣はんさが集中し、芥川の精神と肉体は極度に衰弱していたことは事実であった。だが、世間で取り沙汰されたこのような憶測は、果たして妥当であろうか。

 芥川は死ぬ2日前に、横浜桜木町の宇野浩二うのこうじ宅を訪ね、宇野の細君に挨拶をしている。老舗・岡埜の菓子折と浴衣生地ゆかたきじとを出し「宇野君は甘いものが好きだったから、これを病院へ届けてください。浴衣は宇野君に病院で着せてください」と言った。そして、芥川は病院から来た宇野の手紙をふところから出して細君へ読んで聞かせて、しばらくの間泣いていた。
 宇野浩二の精神異常の発症は芥川の死の前月であった。芥川は友人広津和郎ひろつかずおと共に、青山脳病院院長であった斎藤茂吉の紹介で、6月15日、宇野を王子の小峰病院へ入院させていた。

 これよりかなり以前、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の三日後のことである。卒業を翌年にひかえる東京帝国大学国文学科の学生でありながら、すでに創刊当時の『文藝春秋』編集同人に加えられていた作家・川端康成が、同級の今東光こんとうこうと共に、田端の芥川家に震災見舞いに行った。その時、芥川の発案で「吉原の池へ死骸を見に行く」ことになった。遊郭・吉原の池は、震災の猛火に追い詰められ、折り重なるように焼死・溺死した約500人とも言われる遊女達の死骸でいっぱいであった。まさにそこは見た者だけが信じられる、地獄絵図そのままであった。その光景を思い描くのであれば、幾百の女性が泥釜で煮殺されたさまを想像すればよい。芥川はハンカチで鼻をおさえながらも立ちつくし、その眼はいっぱいに見開かれていた。
 その時の川端康成のエッセイでは次のように結ばれている。

「しかしそれから3年の後いよいよ自殺の決意を固められた時に、あの吉原の池に累々と重なった醜い死骸は必ず故人の頭に蘇ってきたにちがひないと思ふ。死骸を美しくするために芥川氏はいろんな死の方法を考えてみられたやうだ。その気持の奥には美しい死の正反対として吉原の池の死骸も潜んでゐたことだろう。あの日が一生で一番多くの死骸を見られたのだから。それを故人と共に見た私は、醜い死を見知らぬ人々より以上に、故人の死の美しさを感じることができるかもしれない。」

 以上、生身の人間芥川の死因及び死をめぐる情景を叙述したが、筆者の個人的見解にはどれもそぐわない、遠因・近因の後に挙げた2つの例示によれば、精神に変調をきたした宇野浩二に対して親身のさまざまな世話をしていた芥川。川端康成のエッセイによる「美しい死の願望」を抱いていた芥川。その死はさまざまな憶測のどれにもあてはまらない。
 
2.芥川文学「虚構の完成・崩壊」
 多くの専門家・芥川研究者が違うと言うであろうが、筆者の私は、芥川の死はやはり「文学的死、芸術的死」であると考える。いや、正確に言えば、そうしたいとの願望であり、そのように考えたいのである。

 芥川の文学は、理性と知性の理知の力による「虚構の文学」である。菊池寛が芥川の作品を「人生を銀のピンセットでもてあそんでいるようだ」と評したように、きわめて洗練された感覚と理知で「仮構の世界」を築き上げた。近代最高の知識人芥川龍之介は、トルストイやドストエフスキー、ロマン・ロラン、イプセンはもとより、アナトール・フランス、メリメ、ボードレールなどの影響を受け、西欧的教養に基づく理知の力により新たな「芸術的創造世界」を描いた。23歳で『羅生門』を発表してから35歳で自死するまで、わずか10年余の間に、芸術的に完成された多数の作品を残した天才であった。

 芥川にとって小説芸術は、なによりも大切な至上のものであった。それは、なんと「生活よりも人生よりも生命よりも至上のもの」であった。ゆえにこそ、芥川を芸術至上主義者というのである。だから芥川の自死は「人間芥川、芥川の人生は敗北であったが、芥川の芸術、芸術家芥川は勝利した」と言えば言えるのである。このことを別の面から言えば、「若くして、あまりにも急激に芸術的に完成に至った芥川文学が、ついに飽和状態に至り行きづまり、虚構線の火花が散り始めたのを覚知した芥川は、おのれの文学の下降を見るに堪えず、自ら死を選んだ」とも言えるのである。将来に対する「ぼんやりした不安」の内容は、それに近いと筆者は考えている。
 芥川はその芸術を完成させるために心身を摩耗させ。エネルギーを燃焼し尽くし、死したとも言える。また、その完成した芸術を、完成のまま不滅のものとして守護するために死したとも言えるのである。要するに、芥川は芥川文学の完成のために自死したと言ってもよいし、崩壊のために自死したと言ってもよいのである。いずれにしても、芥川は、彼の「芸術至上主義」に殉死したのである。

3.芥川龍之介自死の意味
 芥川の自死が「文学的芸術的な死」であるとする筆者の見解が正しいとすれば、我々の死も、かくありたいと願うのである。芥川は「芸術至上主義」に殉死した。我々も「平和至上主義」「愛情至上主義」などに殉死したいものである。自らが信じ切り、信じ抜いた絶対的価値たる「主義」に殉じて死ぬことはやはり正しい。
 ひるがえって現代社会における「死」はあまりにも「無意味な死」ばかりではないか。成り行きで死んだ。なんとなく死んだ。病気を苦にして死んだ。この世をはかなんで死んだ。などは、「生まれてきた意味」「生の使命」などもすべて否定する。
 人は必ず死ぬ。樋口一葉の24歳、石川啄木の26歳、正岡子規の34歳での死の意味は実に鮮烈であった。しかし、芥川の死は自殺であったがゆえに、より鮮烈である。彼の死はまさに彼の文学芸術と引き替えの死である。
 現世を100歳まで生きても、20歳で死んでも、大宇宙の運行からすれば、その差は微々たるものであろう。なにより重要なことは「死の意味」である。その死の意味こそが「その生の価値」を決定するのである。
 芥川の芸術完成の前期作品も、芸術崩壊の後期作品も、両々相まって芥川の生と死を共に荘厳するであろう。

著者プロフィール

堰免 善夫 (せぎめん・よしお)
長野県生まれ。中央ゼミナール(東京・高円寺)で国語科講師として活躍。小論文、現代文を担当し約40年間勤務。中央ゼミナール監事・役員・小論文主任講師の他、大学新聞社就職コンサル塾副塾長、東京国際学園特別顧問を兼任。
近年は全国の高等学校での高校生、保護者、高校教師対象の講演だけでなく、大学生向けの就職支援の講演会にも登壇している。


◇著書
『古の琴歌(いにしえのことうた)』 (小説作品集) 1987年5月
『知見の旅路』 (思索論文集) 1997年5月
誰にでも書ける 小論文学習の決定版 最も効果的な指導・学習法』 (大学新聞社) 2013年3月
『我が心の久遠・哀愁のヨーロッパ・憂愁の京都』 (紀行随想) 2013年12月

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