小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想 郷愁・慕情・町並みスケッチ

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小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想

郷愁・慕情・町並みスケッチ
2017年4月1日(土)

 古き歴史と伝統につちかわれはぐくまれた町並みは美しい。私が若き日の頃、出会ったそのような旧き日本の町並みは、今なお昔日の面影を失わず、私の心に郷愁と慕情の調べを奏でている。老境を迎えた私の心に、半世紀も前に、ただ一度しか訪れなかった、あの町並みがなぜこんなにも忘れ得ぬものとなって残り続けているのだろうか。
 北から南へ、小樽おたる遠野とおの会津若松あいづわかまつ代官山だいかんやま、横浜山手、金沢、伏見ふしみ長崎ながさき柳川やながわ。いずれもかつて20代の私が、初めて見た風景にもかかわらず、「この町は、いつか来た町」とその時、鮮烈に想った町である。そして、今70歳の私は「帰去来ききょらいの町」として心静かに思う日々である。

1.小樽(北海道)
 小樽はアイヌ語のオタルナイ(砂浜の中の川)が起源である。その名の通り、海に面した天然の港町であり、運河の町である。木骨石造り、石壁で美しく設計された銀行や倉庫が運河に沿ってしっとりと建ち並ぶ。異国情緒に満ちた、美しい町並みである。ことに、黄昏たそがれ迫る頃、もやけむるガス灯が点々とともる運河沿いの町並みは夢幻の情趣である。霧の波止場と橋にかかる街灯の火影ほかげは「哀愁」を漂わせて切なくもはかない。そんな時、「北一きたいちガラス」の現代風に改築された倉庫の茶寮で、木樽椅子に腰かけて喫す一碗のコーヒーは胸の底までみ渡る。その時の私は北国の旅人である。

2.遠野(岩手県)
 民話のふるさと、日本昔話のふるさとこそ遠野である。日本の最も古き風姿を今なお残しているのは遠野をおいて他にない。
 「我かつて遠野を旅せしことあり」と詩情豊かに郷に入りし「遠野物語」の舞台は、読む人すべてに「追憶の彼方」に、日本民族のルーツを呼び覚ます。ただ一人にして「日本民俗学」の学問体系を成した柳田國男の描く「遠野」には、日本人であれば、誰もが郷愁と慕情を誘われるに違いない。「遠野」を見晴みはるかす峠に立てば、遠くに鎮守ちんじゅやしろ。村祭りののぼりがはためいている。民家の茅葺かやぶき屋根からは炊飯すいはんの白煙が登っている。近くは夏草茂る小川の水辺。そこにかかる木橋の上を、数羽の地鶏が列になり渡っている。
 みやこから、はるか遠隔の地「遠野」にれば「オクナイサマ」「オシラサマ」(いずれも家の守り神、農業神)、天狗、山男、仙人、山姥、五百羅漢、そして河童かっぱふちなどの風魂ふうこんが、そこかしこに生きている。民家の「南部曲なんぶまが」(鍵屋かぎや)には「民話の語り」の年寄りが居て、「ザシキワラシ」(奥座敷に住む子ども神)を守っている。
 遠野は、早池峰はやちね山、六角牛ろっこうし山、石上いしかみ山などの山々に囲まれ、昔は鮭がのぼってきた猿ヶ石川が中央に流れる今なお秘境の盆地なのである。

3.会津若松(福島県)
 会津若松は、会津盆地に南東からそそぐ湯川の扇状地にある。
 戦国大名芦名あしな氏、蒲生氏郷がもううじさと加藤嘉明かとうよしあきら保科ほしな氏、そして、戊辰戦最期の城主、松平容保まつだいらかたもりの鶴ヶ城の城下町である。白虎隊が自決した飯盛山に抱かれた古き町家・土蔵の町である。
 会津木綿、会津絵蝋燭えろうそく、会津駄菓子、会津上菓子、会津竹細工などを扱う旧き商家が点在する、極めて復古的な個性溢れる町並みである。個性溢れるというのは、単なる古色蒼然とした街並みではないからである。そこかしこに懐古に馴染む「近代化」が図られ、その新旧の見事な調和がまた新たな伝統を創っている。
 「青春通り」は江戸時代の医家に近代開化の装いを凝らし、さらに現代化を施した「野口英世記念館・喫茶店」を中心にした町屋通りである。ここにたたずむと、まさに古人いにしえびとの、学生時代、青春時代が忽然と蘇る。2階の記念館の資料より野口英世を偲び、1階で喫茶しながら余韻にひたる。そして生まれる以前の旧き青春を感じるのである。
 
4.代官山アパート(東京都)
 大正12年(1923年)の関東大震災により、47万戸の住宅が破壊消滅した東京では、不燃コンクリートアパートが建設された。渋谷区代官山町の「代官山アパート」は、日本最初の不燃集合住宅であった。2万平方メートルの敷地に2階建て及び3階建の住居棟36棟、337戸が建てられた。この中には店舗の他、付帯施設として住民の共同食堂、共同浴場、加えて娯楽室及び児童遊園地まで設けられていた。このアパート敷地の入口には大きな石門があり、まさにローマ時代住居の再現と言ってよい。
 思えば今からちょうど半世紀、50年前、学生の私は初めて上京。この近くに下宿していた。初めてこの代官山アパート群を見た時、私は城壁に囲まれた、古代ギリシャ・ローマ時代の町並みに紛れ込んだかの錯覚を覚えた。ここに2年間住んだ私は、生まれて初めて文化的な生活を実感し、新しい都会での新しい時代を肌で感じた。私は1週間に3日はこの代官山アパート内の代官山食堂で夕食を摂り、2日は代官山浴場に通った。まさに「ローマの浴場」であった。
 豊かな緑蔭の中に旧きレンガ色のコンクリート住宅街。石畳の街路に緑の並木道。現在では、周辺にはハイカラなブティックや洋菓子店、レストランなど、最先端の現代アート建築が通りに沿って並んでいる。しかし、代官山アパートは、古代ローマ史蹟コロッセオの如き趣きで厳として存在していた。
 あれから50年。あの城内アパートのレンガ色の住居棟と緑の並木、あのセピア色の広場の空間、そして「代官山浴場」のぬくもり。「代官山食堂」の配膳の匂いは、今なお私の身体に蘇る。

5.横浜山手(神奈川県)
 異国情緒(エキゾチック)溢れる港町、横浜。外国との交易のための港湾都市として安政6年(1859年)に開かれ、外国人建築家、土木技術者によって、ヨーロッパ風の町ができあがった。慶應3年(1867年)には、港と市街地を見下ろす高台の山手地区の開発が始まり、イギリス領事館、フランス公使館の他、教会、外人墓地、公園などが次々に造られていった。屋根裏部屋を持つ腰折れ屋根の建物、山小屋風・ヴィクトリア王朝風の建物、下見板張りの外壁にバルコニー付きの建物などが丘の上に重なりあって建ち並ぶ姿は、まさにヨーロッパそのものであった。特に、港の見える丘公園のイギリス館、旧エリスマン邸、山手教会クライストチャーチ、セント・ジョセフ・ベーリック・ホール、そしてフェリス女学院など、山手一帯の町並みは、西欧文化そのものの現出であった。そしてそれは、現代日本の視点からいえば、近代化日本の歴史を物語る遺産であると共に日本人の中に西洋が住まう最初となった。
 私は50年前の若き日、休日になると、半日づつ「横浜と鎌倉」で行ったり来たりを繰り返していた時期があった。西洋と日本を、個人の中で繰り返し体験していると「不思議な私」を知ることになる。どちらも、自己の生命感覚の中で馴染んでくると、違和感がなくなり、西洋人と日本人の私が当たり前になる。そのような時に、横浜で「日本」を、鎌倉で「西洋」を考えると、ものすごくわかるのである。このことは究極のところ、私は日本人として生まれるずっと以前に、西洋人だったということである。少なくとも私の生命感覚は、それを確信していた。
 横浜山手の町並みは、私の生命ルーツを紐解いてくれた「エキゾチック・マジック」である。
 
6.金沢(石川県)
 加賀百万石の城下町・金沢は、町並みの中央部をさい川と浅野川の2つの川が並行して流れている。金沢は城を中心に武士の住居が4割を占めた典型的な城下町である。現在でも人が住んでいる武家屋敷の風情ふぜいと、九谷くたに焼、加賀友禅かがゆうぜん、金粉細工などの伝統工芸や、能、茶道、華道などの伝統文化がしっかりと受け継がれている。
 しっとりと落ち着いた、極めて日本的な美しい風格をにじませる金沢は、一方で城跡に位置する金沢大学、旧第四高等学校などの文教の都でもある。また中央部に広く緑化された兼六公園、大野庄用水、辰巳用水、卯辰山山麓などの自然も美しい。その美しい自然に囲まれた昔の遊郭花街・東山や寺町の旧き町並みは静かな環境に馴染んで、その調和の風姿がことのほか美しい。
 しかし、老境の私が、今なお、心象風景として金沢の町並みに郷愁と思慕を誘われるのは、文学的叙景である。犀川のほとりには室生犀星むろうさいせいの、浅野川のほとりには泉鏡花の、卯辰山には徳田秋声の文学的生命が息づいている。若き日の私が、その時、「こうして犀星の『抒情小曲』が生まれたのか」と深い感動を覚えたことは、歳月を経ても色褪せない。泉鏡花の文学にも徳田秋声の文学にも、私はこうして、作家と作品の文学的生命の実感に支えられて馴染んでいった。忘れ得ぬ金沢の町並みである。

7.伏見(京都府)
 京・洛南・伏見は「蔵と白壁の酒倉」の町である。「伏水ふしみ」と呼ばれるほど豊かな湧水に恵まれたことから「月桂冠」「黄桜」の酒造業、樽屋・竹屋の商家が軒を並べる町並みができた。伏見は、京と大坂の中間点にある。宇治川に沿い、また京の豪商・角倉了以すみのくらりょういによって掘られた高瀬川の運河により、幾重にも水路をめぐらせた水の都の形が原型となった。その上に、太閤堤、伏見湊、伏見城などを豊臣秀吉が築き、武士が創った港湾商業の町としての様相を呈するに至るのである。それだけに伏見は本当に「歴史の町」である。町並み自体が幾重にも歴史の情感を堆積した「情緒重層」の叙景をかもし出す。だから伏見を訪れる遊子ゆうし(心ある漂泊の旅人)は、一様に「歴史」を感じるのである。いや「感じる」というのは正しくない。伏見の町並みに「わが身」を置けば、その人は「史観を見る」のである。「史観を見る」とは「自己の中の歴史」をかみしめ、歴史の中の自己が、歴史を織りなそうとする「現在の自分」を味わい、そして、伏見の町と共に未来の自己に思いを馳せる。一瞬のうちに、そんな自己を体験できる。それが伏見の町並みなのである。

8.長崎(長崎県)
 1571年、キリシタンの町、外国貿易の町として、ポルトガル宣教師と商人の力を借りて造られたのが長崎の町の始まりである。
 それ以来、幕末までのおよそ300年、鎖国であっても唯一ヶ所、海外に開かれた「日本の窓」が長崎であった。大浦天主堂、グラバー邸、オルト邸、リンガー邸、羅典神学校、旧香港上海銀行、旧イギリス領事館、ミッションスクール・活水学院、孔子廟など。石垣、石畳、側溝、下水道などを備えた洋風建築がエキゾチック(異国情緒)な面影を見せている。これらの建つ丘の下には石畳に路面電車が走る。これらの横顔を真っ赤に染めて長崎港の海に沈む夕陽は、毎夕泣き濡れているようだ。
 長崎は宿命の町である。戦慄走るキリシタン弾圧の町、そして悲惨極まる原爆投下。長崎の町並みの美しさは哀しみにふちどられている。
 長崎の町は実に苦しんだ。そのあえぎは哀切と悲傷に色どられ、町行く人々の心に染み続けた。長崎の進取は、いつも哀惜を伴ってきた。だから長崎の町並みの日常はもの悲しい黄昏たそがれの中に暮れなずむのである。そして、長崎の町並みにたたずむ人は、皆誰もが美しくも哀しい。

9.柳川(福岡県)
 柳川の町並みは「掘割りの水面に映える柳並木」と連れ添っている。筑後川と矢部川による掘割り用水路が町全体に網の目のようにはりめぐらされている。現存する市街地水路の総延長は60kmにも及び、観光客は「どんこ舟」で舟上から町を見上げる。「味噌みそ」「醤油しょうゆ」を創っている並倉なみくらが掘割りに影を映す風景は、まさに懐古を揺する影絵の情趣である。
 下船場の水天宮の辺りは柳並木が影を映し、「からたち垣根」の北原白秋生家は、それこそ詩情溢れる風物画趣に満ちている。
 町並みの町家も「草き」「瓦葺き」「妻入り」「平入り」と、様々な風姿の町家を見せている。ことに旧藩主の立花家別邸を改装した料亭「お花」一帯や、土手、石垣、石畳などには郷愁をいざなう面影が映えている。白秋生家の一階正面には格子窓、なまこ壁、二階建て母屋は平入りで、背後は掘割りに接して「お花」に水路が通じている。「水郷・柳川」はまさに白秋の最期の著書・詩文の「水の構図」である。この「水の構図」こそ、白秋文学を生んだ「生命いのちの母体」である。柳川の水辺の町並みはいつまでも慕情をかきたてるであろう。

 

 以上、9つの町並みを取り挙げたが、これらの町並みは実に不思議である。いずれも半世紀、50年も前の思い出である。追憶の彼方に想いを起こして文章につづったのであるが、今でも鮮烈に「思ひ出」は甦る。参考資料など一切なしに、心ひとつで書けたことが、私にとっては不思議この上ないのである。

著者プロフィール

堰免 善夫 (せぎめん・よしお)
長野県生まれ。中央ゼミナール(東京・高円寺)で国語科講師として活躍。小論文、現代文を担当し約40年間勤務。中央ゼミナール監事・役員・小論文主任講師の他、大学新聞社就職コンサル塾副塾長、東京国際学園特別顧問を兼任。
近年は全国の高等学校での高校生、保護者、高校教師対象の講演だけでなく、大学生向けの就職支援の講演会にも登壇している。


◇著書
『古の琴歌(いにしえのことうた)』 (小説作品集) 1987年5月
『知見の旅路』 (思索論文集) 1997年5月
誰にでも書ける 小論文学習の決定版 最も効果的な指導・学習法』 (大学新聞社) 2013年3月
『我が心の久遠・哀愁のヨーロッパ・憂愁の京都』 (紀行随想) 2013年12月

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