小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想 「日本伝統工芸が教えるもの」(染織と陶磁器に学ぶ)

  • 保護者の方
  • 教諭の方
  • 編入学希望の方
  • スキルアップ希望の方

小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想

「日本伝統工芸が教えるもの」(染織と陶磁器に学ぶ)
2017年3月1日(水)

1.染織が教えるもの

 およそ、あらゆる芸術・美術・工芸の中で、染織せんしょくほど自由が制限、規制されているものはないであろう。素材は糸と色以外ない。伝統染織においては、その糸は自然生命の生糸(絹糸)、綿糸。色(染色)は天然染料である。
 織物を作るにははたという縦糸を渡し、それに横糸を交わり通して織る機具はたぐ以外の方法はない。
 染色も天然の植物から抽出される色を採る以外ない。染織家は染色された色糸の束から作品をイメージして紬織つむぎおりの制作を行う。最も単純な「平織」ひらおりでは濃淡を表すぼかしの技法以外のものはない。まさに微粒子のような空間を綿密に、正確に埋め尽くしてゆくこの技法は、必然的に、自由な表現を拒絶する。それ故、一通りの技法をマスターした染織家は、次の段階では、忠実に規則に従って精進してきて直面した、このがんじがらめの重く苦しい抑圧に呻吟しんぎんするのである。

 しかしこの呻吟こそ、染織芸術家・・・への必須の道なのである。「才能の捌け口を極力制限」されることにより自己が規制される。そして、その規制の超克によってこそ、「芸術表現・・・・秘事・・」を知ることができる。
 伝統の姿とは「生命の継承」である。そのながき伝統の中につちかわれ、淘汰とうたされてきた様式美と新たな時代の制作者の熱き生命の叫びが結びついた時、思いがけなくも、説得力を持つ新たな伝統美が誕生する。伝統の重みは、まさに永き歳月の風雪の中にあってなお、新しい生命の息を吹き返し生きながらえてきたことによりできあがる。

 最高峰の染織芸術家・志村ふくみ(1986年紫綬褒章受章・1990年重要無形文化財「紬織つむぎおり」保持者認定・1993年文化功労者。1924年生まれ、2017年3月現在93歳)さんは、代表作である桜色の紬織つむぎおりについてこう語る。「あの美しい淡い桜色の染色は、桜の花びらをどんなに煮詰めても決して得られない。つぼみが、今まさに咲かんとする瞬間の桜の幹の黒樹皮を煮詰めて初めてあの美しい桜色は表れるのである」と。
 志村さんはまた「自由な表現を押し殺され、心理が奥に究極まで押し込まれた時、ついに自己の魂が、その精巧な糸間から密かに立ちのぼる。それはすでに織物であることすら感じさせない程の柔らかく暖かな表現力を持ち、絵画や文学とも違った、一種の音楽的な有機的質感を伴って昇華されてゆく」と、悟達して新たな染織の新境地を開いた時のおもいを語っている。そして、その結果「制約こそが救いとなり、楽しく仕事ができるようになっていった」とも言うのである。
 今日こんにちの造形としての新しいおりとして「おさ」(織物の縦糸をそろえ横糸を押しつめて織り目を整えるための機具はたぐ)「」(機織はたおりで横糸をまいた管を入れて、縦糸の中をくぐらせる小さい舟形の機具はたぐ)をかなぐり捨てて、「はたを解体」して、手で糸やつなを空間に張りめぐらせる「織の新芸術」と称するものが考えられ始めている。しかし、これは「織」とは言えない、全く自由自在の表現である。志村さんいわく「の人々には何よりも、自らの厳しい抑制による表現が必要ではないのでしょうか」「なぜなら一本の糸もその元をたどれば、宇宙の根元にしっかりと結ばれているからです」「そうでなければ、見る人に確固とした実在感を与えることはあり得ない筈です」
 優れた芸術家の仕事は、どんな造形表現の中にも芸術家・・・哲学・・がひそんでいる。「染織」において、それがあってこそ、無数の糸が織りなす交錯こうさの中に「繊細な室内楽」を聞く思いがするのである。
 我々は「染織」から学ばねばならぬ。「常に自由を制限・規制されることの必要性」を「がんじがらめの重く苦しい抑圧に呻吟することのありがたさ」を。「才能のけ口を極力制限される自己規制の重要性」を。そしてそこから「制約こそが救いであることの悟達」それが「自己新生」のための方法であることを。自己が現在置かれた状況を、環境を、決してなげいてはならない。自己新生の好機到来なのだから。自己の心理が奥に究極まで押し込まれることこそ、「自己新生」のための必須の条件なのである。
 そしてもうひとつ「この世のものは、一本の糸もすべて元を辿たどれば、宇宙の根本にしっかりと結ばれている」という、そのことの真理を学ばねばならぬ。ゆえにこの世のものは、どんなものでも大切にいつくしみ、はぐくまねばなるまい。そのことをしっかり肝にめいじて、我々は生きていくべきである。

2.陶磁飲食器が教えること

 筆者の趣味は日本全国の陶磁器を収集することである。これまで、地方に出かける度に、その土地の名産の焼き物を、ひとつ、二つと買い集めて自宅に陳列していた。そのほとんどは、湯呑茶碗、コーヒーカップ、小皿などの小さな飲食器である。そうして40年程経た最近になって、或る日、突然はっと気がついた。これらの陶磁器はすべからく、飾り置くものではなく、実用品として飲食に使うものではないか。これらは元より日常生活において使用されるために作られたものである。そうすると、使ってみて初めて、その芸術的価値と意義が浮上してくるのではないか。
 考えてみれば、私のこの再認識は、己(おのれ)の不明を恥じるばかりのことである。再認識どころか、最初から「飲食器は使うもの」という、この至極当然のことを失念していたのである。
 実際に使ってみて、私は「目が覚める程」驚いた。まず、飲食器のデザインの機能性である。飲み易い、食べ易いように、そして、器の中の飲食物をいかに美味しそうに見せるのか、という機能性に満ちていることを知った。持ち易く使い易いことは当然のこととして、私の大いなる発見は、優れた陶磁器は何より、中の飲食物を映えさせるデザインを備えている。つまり、主役は飲食物であり、陶磁器はあくまで脇役であるということである。だから陶磁器は、どこまでも謙譲であり、控えめで、素直な姿に身を持している。
 気がつけば名品とされるものは、碗にしても皿にしても、絵付模様は無地であり、たとえあっても、極力装飾を排した極めてシンプルなものである。絵付けだけに限らない。レリーフ装飾なども、手や口に触れた時、不愉快であり、また洗いにくい。
 絵付けはことに中に飲食物がある時は、とりわけ目がそこかしこにちらつき、内容物の存在を弱めることになる。かくして名品の優れたデザインとは「機能に沿って使い易く、形は優美でありながらシンプルで、飲食物を映えさせる白色無地のもの」と言えよう。

「装飾の無い所に、本当の装飾がある」とは、現代建築の泰斗であるル・コルビジェ(1887年- 1965年)の言である。
 白無地の飲食器は、戦後間もなく日本にも出現した。実は白無地の飲食器程、高価で手間のかかるものはない。絵付けの工程が省かれるため、手間も省け、コストも安くなると思うかもしれないが、実は大変な作業工程であり、コストも高くなるのである。
 白無地ではわずかのちり(鉄粉)があってもいけない。実際、絵付模様付にはこの塵(鉄粉)を隠す効果があり、少々材質を落としても差し支えないため、絵付模様付の陶磁器はかえって安価なのである。
 さらに白無地には、もっと大きな「白自体」という問題がある。白生地は、磁器(極小石片による)の材質によるものと、硬質陶器(陶器は粘土による)の材質によるものとの二種類に大別される。磁器の生地は透かして見ると半透明で、白色は冷たく繊細で軽い。一方、硬質陶器の生地は、不透明で、やや暖かく鈍重である。前者を絹質とすれば、後者は木綿質と言える。プレーンな白生地の飲食器デザインは、シンプルな美しさを誇るが、大衆的にはあまりに単調過ぎるため、優れた絵付模様が試みられたが、成功例は、ほんの僅かである。その僅かな成功例は、ドイツのローゼンタール、オランダのデルフトなどの最高級品質のものである。
 今日では、新たにクラフトデザイン製品が、人間的暖かみのある手工芸品として、大衆化の領域を開いている。このクラフト陶磁器のデザインの最高峰レベルは、フィンランド、ノルウェー、スウェーデンなどのスカンジナビア半島諸国である。

 これまで陶磁器を日常的に使用すべく、あくまで飲食物のうつわとして考えることを第一義として叙してきた。それはあくまでもそうである。だが、この飲食器自体を主として考える場合、これでは余りにも単調で物足らない。陶磁器自体の自律性は尊重されるべきではないかとも考えられる。なぜなら陶器も磁器も、その始原である「土」や「石」は全て「宇宙の根源」にしっかりと結ばれているからである。
 それを考える時、必然的に陶工・長次郎の「楽焼」が浮かぶのである。楽焼は茶の湯最盛期の桃山時代「今焼」と呼ばれた。その「楽茶碗」はまさに茶の湯のためだけに生まれた茶碗である。だから、飲食器として使うことは使うが、それは「茶会」における喫茶以外に使うことはない「茶道茶碗」である。ゆえに楽茶碗は屋内の小さなかまで、一碗一碗焼き上げる技法が用いられる。それは「一子相伝」、後継者の一人以外には教えない伝承である。その精神・技法は、千利休せんのりきゅうが長次郎に注文して作らせた始祖以降、450年間、楽家のみに脈々として受け継がれてきた。
 こうした独自の伝統は、世界でも類例を見ない。日本伝統文化を代表する「わび茶」の思想を、日本の生活文化の中に生かした楽焼茶碗は、誇張や装飾を削ぎ落とし、静謐でやわらかく、しかも力強い。それこそが文化生活の中に、きわめて思索性を秘めた日本精神の表現である。

 我々は陶磁器の飲食器から多くのことを学ばなければならない。
 まず第一に飲食に用いる陶磁器は「美しき脇役であり、しかもなくてはならない必需品である」ということである。我々も「絶対にいなくてはならない必須の存在」でありながら「自己の存在自体が相手を引き立て映えさせる」そういう人になりたいものである。しかし、そのような人自身は「自律性」のある「美しい存在」である。
 第二に「白色無地でシンプルでありながら優美である名品」の如くに我々もありたい。様々な絵付け装飾に飾り立てた自己ではなく、汚れなき純白無垢むくな心身でありたい。やはり、自己の汚点・欠点を装飾で糊塗ことしてはなるまい。しかし、この白色無地の名品ができあがるには、大変な手間のかかる工程を経て、コストも高くなるのである。だからこの名品のように自己が純白無垢であるためには、元より無垢な子供の場合を除いては、大変な努力を必要とすると言える。

 以上の如く、日本の伝統工芸における染織と陶磁器から、我々が学ぶことは多大である。 そして、両者の共通せることから、我々が教えられることは「人間も、この世のものは全て、元を辿れば、宇宙の根元にしっかりと結ばれている」ということである。

著者プロフィール

堰免 善夫 (せぎめん・よしお)
長野県生まれ。中央ゼミナール(東京・高円寺)で国語科講師として活躍。小論文、現代文を担当し約40年間勤務。中央ゼミナール監事・役員・小論文主任講師の他、大学新聞社就職コンサル塾副塾長、東京国際学園特別顧問を兼任。
近年は全国の高等学校での高校生、保護者、高校教師対象の講演だけでなく、大学生向けの就職支援の講演会にも登壇している。


◇著書
『古の琴歌(いにしえのことうた)』 (小説作品集) 1987年5月
『知見の旅路』 (思索論文集) 1997年5月
誰にでも書ける 小論文学習の決定版 最も効果的な指導・学習法』 (大学新聞社) 2013年3月
『我が心の久遠・哀愁のヨーロッパ・憂愁の京都』 (紀行随想) 2013年12月

「進路ナビ」では、進路情報研究センターからの各種最新データや講師によるコラムを配信しております。ぜひ日々の進路指導に、ご活用いただけますと幸いです。

記事一覧

>> すべての記事を見る
  • 講演講師ナビ
  • 大学新聞定期購読キャンペーン
  • 進路コラム
  • 書いて考えるシリーズのご案内
  • 進路ナビゲーションのご案内
  • 就職懇談会のご案内
  • 進路アドバイザー検定
  • キャンパスアクター