小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想 「優れた教師としての夏目漱石」

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小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想

「優れた教師としての夏目漱石」
2017年2月1日(水)

 日本近代文学において、夏目漱石なつめそうせきは著名な小説作家であることは周知のことであろう。なかんづく、「漱石全集」が示す通り「大文豪」であることもまた言を待たない。さらに秀抜な英文学者であったことにも異論はなかろう。しかしながら、その前に漱石は「優れた英語教師」であったことを決して見落してはならない。

 漱石は中学校、高等学校、師範学校、専門学校、大学とその全てで教鞭を執った。良き英語教師であり、近代日本の英語教育に大きな足跡を残してもいる。そして、なによりも生徒・学生に対し、暖かくて親切な対応、面倒見がよい立派な「教師」であった。
 ふるくからの門下である童話作家・鈴木三重吉の『漱石先生の書簡』によれば、「いつの年の冬のことであったか、先生のお宅へ伺うと、先生は茶の間の縁側にこごんで12、3歳ぐらいの薄汚い着物を着た、そこいらの近所の子供らしい少年に、英語の第1リーダーを教えていられた。先生は胃が痛いと見えて、元気のない顔をしていられたが、でも、語気や態度には、ちっとも面倒くさそうな様子もなく丁寧に教えていらした。少年が帰ってから『どこの子ですか』と聞くと『どこの子だか、英語を教えてくれとやってきたのだよ』と先生は答えて微笑していられた。」胃の痛みをこらえながら見知らぬ子供を一生懸命教えていた漱石。それからまもなく大正5年(1916年)12月9日に死去する漱石の、最後の英語レッスンであった。
 これより18日前の大正5年11月21日、フランス文学者の辰野隆の結婚披露宴に出席した漱石は、にわかに体調を崩し、病の床にせった。
 漱石の松山中学時代の教え子で主治医でもあった真鍋嘉一郎まなべかいちろうは、当時、東京帝国大学医科大学で教えていたが、漱石が病臥したとの報を受け、学生達に事情を話して当分休講にすると伝えたところ「講義などいくら休んでも構わないから、どうか夏目先生を早く治してください」との返答を受けた。勇気づけられた真鍋は、漱石宅に日参し献身的な治療を尽くしたのである。
 ところが誰あろう漱石自身はこれを喜ばず、真鍋に「君は学生が待っているから学校に出ろ」と繰り返し言っていた。教師の最低条件は授業を休まないことである。死の床で言っていたこの言葉こそ、漱石が教師の職責の重要さをよく自覚していたあかしであろう。


(1)教師・夏目漱石
 夏目漱石が初めて教師になったのは、高校生の時であった。しかも第一高等中学校で落第した後の、明治19年(1886年)秋頃、19歳の時である。動機は、家から学資を仰がずに学問を続けるためであった。現在の墨田区両国にあった私塾〈江東義塾〉の英語教師となったが、英語で地理や幾何学も教えた。午前中、第一高等中学校で学び、午後夕方、私塾で教えた。
 筆者の私もそうであるが、教師経験者ならば誰もが体験する「初めて教壇に立った時の緊張や高ぶり」は、独特のもので、いつまでも忘れられないものである。大作家になった後までも、漱石はこの時のことを鮮明に覚えていて、『変化』『永日小品』『一貫したる不勉強』などに書き残している。
 この私塾での勤務は1年で終わり、次なる教師経験は、明治25年(1892年)5月〈東京専門学校(現在の早稲田大学)〉である。この時、漱石はすでに25歳、東京帝国大学文科大学英文科2年生の文科大学特待生として、その俊秀しゅんしゅう振りを発揮し始めていた。
 早稲田大学と言えば、島村抱月しまむらほうげつ(早大きっての秀才。自然主義文学評論家、芸術座創立、新劇指導者)、綱島梁川つなしまりょうせん(キリスト教倫理学者)、藤野古白ふじのこはく(俳人・正岡子規まさおかしき従弟いとこ)、正宗白鳥まさむねはくちょう(自然主義小説家)が、当時の学生達であった。
 このうち当時専修英語科で直接漱石に学んだ綱島梁川は、その日記(梁川全集第八巻『日記録』)にて、漱石の講義とその英語力を絶賛し、高い評価を与えている。この日記には、下校時漱石と帰途を共にし、話をしたこと、漱石宅を訪問し、夜10時まで談論したことなど、漱石との交流が記されている。非常勤講師にすぎない漱石の学生に対する親身な対応がしのばれる。
 後の「漱石山房・木曜会そうせきさんぼう もくようかい」から多くの逸材が輩出したのはよく知られていることであるが、はるか以前の若き教師時代から、いかに教え子を大事にしていたかがわかるであろう。


(2)教師挫折
 これも、教師経験者なら誰でも一度は身に覚えがあることであるが、「教師挫折」を漱石も味わうことになる。前項の通り、漱石は東京専門学校(早稲田大学)では優秀な英語教師として歓迎されていた。ところが漱石は親友の正岡子規まさおかしきから思いもよらないことを聞かされる。直接には言いにくいため、早稲田の重鎮、坪内逍遥つぼうちしょうようから正岡子規に連絡があり「漱石に対する辞職勧告運動」が起こっていると告げるのである。漱石にとっては、「信じられぬ思い」であった。
 しかし、これも教師経験者ならすぐに排斥の理由はわかるであろう。レベルの高い授業をする漱石先生に対し、できの悪い生徒が反発するのは当然のことで、不思議なことではない。同校のクラス生徒は「玉石混交ぎょうせきこんこう」で、どのレベルに合わせるかは実に難しい。教師にとってすべての生徒から尊敬されるのは至難である。授業だけで全員の生徒を満足させることは到底できはしない。
 この話を聞いた漱石は子規と共に逍遥を訪問し「学校の委托を受けながら、生徒を満足させられなかった責任と良心の呵責上、辞職したい旨」を伝えた。しかし、逍遥の強い説得により、この時は思いとどまり、しばらくはそのまま教職を続行したのであった。
 

(3)馴染なじめなかった学校
 明治26年(1893年)7月、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業した漱石は、10月から大学院生と英語教師の両立を目指し、就職活動を開始する。
 当時、湯島聖堂内にあった高等師範こうとうしはん学校は、その名の通り「教員養成」のための学校であった。
 校長は「柔道の父」弘道館こうどうかんの創立者、嘉納治吾郎かのうじごろう。その校長との初対面の折、「教育者には徳性が何より求められる。教師には、聖職者たる高い倫理性道徳性がなければならない」と言われた漱石は「それでは自分にはとてもできない」と辞退する。すると嘉納は「あなたの辞退するのを見て、ますます依頼したくなった。とにかく、やれるところまでやってくれ。」とのことで、結局、漱石は高等師範学校の英語嘱託となった。
 しかし、この学校は1年半で辞めてしまう。漱石には、高等師範学校の全生徒が寄宿舎生活で、軍隊さながらの訓練を受ける体質がどうしても合わなかったのである。
 元々「自己の教育者の資質を否定していた」漱石は、高等師範学校教師の体験により、一層その意を強くする。しかし、当時教師以外に生計の道が思い及ばなかった漱石は、それ以後も、教師を続けるのである。


(4)松山中学・教師時代
 明治28年(1895年)4月、漱石は四国愛媛の松山中学校(現松山東高校)の英語教師となる。親友の菅虎雄すがとらおの紹介で、アメリカ人教師C.ジョンソンの後任として赴任したのである。この松山中学が作品『坊っちゃん』の舞台であったことはよく知られているところである。
 松山中学時代の教え子で、漱石の最も古い門下生である松根東洋城まつねとうようじょう(俳人)は当時を振り返ってこう書いている。
「漱石先生の授業は英語に極めて忠実で、生徒に実に親切であった。しかも生徒の智識力脳力を量ってよく了解・納得するように教えられた。私などは特別に語学が好きでもなかったが、先生に教えて戴いてからは、英語は面白いものだと心底から感じ出した」(『先生と俳句と私』)
 しかし、漱石自身の結婚の決定、郷里松山の実家に滞在していた親友・正岡子規の帰京、そして何より、生徒による住田校長排斥のストライキと校長辞任の不快感が要因となり、漱石は1年間で松山を去ることになる。


(5)熊本五高・教師時代
 明治29年(1896年)4月14日、漱石は熊本の第五高等学校に赴任し、7月に教授に昇進した。 五高は、いわゆる旧制高校で、帝国大学に入学するための本科(大学予科)と分科(専門部)が存在した。五高の生徒は、松山中学の生徒とは比較にならぬ程学力が高く、学習進度はものすごく速かった。生徒には予習の「下読み」が課せられ、下準備ができていない生徒は授業でこってり絞られた。
 漱石は熱心にも「毎日朝7時から8時まで課外授業として、シェークスピアの『ハムレット』や『オセロ』などの特別講義」を行っていた。また鏡子夫人によると、夏休み中にも、希望する生徒には、1回約2時間の英語の指導をしていたという。
 漱石側近の弟子である寺田寅彦は「一日も休まず課外授業に出席し、夏休み中は頻繁に漱石の家に通って学んでいた。極めて貧窮している生徒、湯浅君、俣野君、土屋君などは、『そんなに困っているなら、うちれ』と先生自ら勧め、書生として自宅に住み込ませ、学費も援助した」と回想している。
 なにもこの3人に限らない。彼ら以外にも貧乏学生には学費援助をしたり、やむを得ぬ事情で退学となった複数の生徒には、学習院にいる懇意な友人、立花銑三郎たちばなせんざぶろうに受け入れの要請をしている。漱石自身によると、かくの如き善行為の大きな理由は、「五高生の教師に対する礼儀正しく誠実なる尊敬の態度による」と言う。本物の教師は、このような殊勝な生徒の健気なあり方に、限りない愛しさを感じるものである。
 寺田寅彦が漱石と初めて会ったのは、成績が悪かった友のために「点をもらいに」漱石の自宅を訪問した時である。こうした風習は、ほとんどの教授は拒絶するが、漱石は快く迎えてくれた。
 また、現在東北大学の「漱石文庫」の中に所蔵されている「漱石がたった一人の生徒のために作った試験問題」を見ると、その一枚の問題用紙に、「漱石の教師としての人間的暖かさ」が、同じ立場の筆者の私には、思わず「胸が熱くなる程」伝わってくる。
 このような五高で漱石は明治33年(1900年)7月までの約4年半程、教鞭きょうべんり、ここで初めて英語以外の広範囲で生徒の教育にたずさわったのである。その後、漱石は英国に留学した。


(6)一高・教師時代
 明治36年(1903年)1月に英国留学から帰国した漱石は、4月10日に第一高等学校英語教師の辞令を受け、4月15日には東京帝国大学文科大学講師を委嘱された。
 一高での教師・漱石は赴任当初から大きな問題に直面する。当時新聞紙上を賑わし、青年層に大きな衝撃と影響を与えた「一高生・藤村操ふじむらみさお日光華厳の滝に投身自殺」事件である。かの有名な遺書「巌頭の感がんとう かん」の一節「人生は不可解なり……」は、一世を風靡ふうびした名言となった。
 その藤村の自殺は明治36年5月22日であるが、実は5月13日の授業で漱石に訳読を指名された藤村は、「やってきませんでした」と答えた。「なぜやってこないのだ」と聞かれると「やりたくないからやってこないのです」と言った。漱石は、この時は「この次やってこい」で済ませたが、20日の授業で藤村が再び、下読み(予習)してきていないことを知ると「勉強する気がないなら、もうこの教室にはこなくてよい」と厳しく叱った。その2日後に藤村が自殺したのである。
 藤村の自殺の原因は遺書に明らかなように「人生に対する哲学的煩悶はんもん」であり、漱石の叱責とは無関係であったが、漱石は「自分のせいで…」と随分と悩み続けた。(藤村と同じ教室に居た、後の門下生、野上豊一郎の回想)
 しかし、その後の一高での漱石の講義は順調であった。漱石は出席簿を読み上げる時もすべて英語で、「Mr.―」と生徒を呼んだ。
 野上豊一郎と共に、一高・帝大を通して漱石の授業を受けていた、名作『銀の匙ぎん さじ』の小説作家・中勘助なか かんすけは次のように回想している。
「最初の講義で、先生の正確で美しい英語の発音に衝撃を受けた。授業中の先生は実に厳格であったが、ちっとも毒気のないやり方なので生徒に不快を与えるようなことは少しもなかった」

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(7)東京帝大・教師時代
 帝大での教師の職には漱石はかなり逡巡しゅんじゅんした。その一番の要因は、「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲こいずみやくも)先生の後任」として英文学を講じることの重荷であった。
 「ハーン(小泉)先生は英文学の泰斗(大家)たいと たいかであり、世界的文豪であるのに、自分のような書生あがりの駆け出しに立派な講義ができるわけがない。学生も決して満足できる道理はない」との気持であった。しかし、最終的に引き受けた漱石は、持ち前の真面目さで、学生のリーディングの発音はかたっぱしから直す。訳については、それこそ中学生扱いで、学生は大きな恥辱を与えられ、帝大生のプライドをずたずたに引き裂かれた。
 当然のこと、漱石に対する反感は大きくなった。こうした講義に反発した小山内薫おさないかおる(築地小劇場創立・主宰、近代劇作家・演出家)はすぐに出席をやめ、川田順(歌人・佐々木信綱門下)などは、法科に転科した。
 ところが、その年の秋10月から、一般講義として、シェークスピア『マクベス』が始まってから、漱石の人気はうなぎ上りとなった。
「夏目漱石先生の英文解釈力は文法的に見てもすばらしい。訳解は精確無比せいかくむひにして、一点のあいまいさも無い。評釈ひょうしゃくは既存の注解ちゅうかいの上に独自の視点観点によりしゃくし、しばしばの、原書原文批評に、まことに面目躍如めんもくやくじょといったものがあり、実に優れていた。小柄な体に似合わず、声は大きく、語調はゆったりして、聞き取りやすい講義であった。」(野上豊一郎・及び中勘助の言)
 漱石は、その後も、明治40年(1907年)3月25日、帝大を去るまで、『マクベス』『リア王』『ハムレット』『テンペスト』『オセロ』『ベニスの商人』『ロミオとジュリエット』の順で、シェークスピアを講義し続けた。この講義は法科や理科の学生も聴講に来る人気振りであり、文科大学教室の中で一番の大教室・第20番教室が立錐の余地がない程満員札止めの大盛況であった。


(8)小説の中の英語教師
 夏目漱石の文学作品の中でも英語教師は主要な役割を演じている。もちろん、漱石の教師時代の体験が反映されている。
 漱石は、明治40年41歳で教師を辞し、大正5年49歳で死去する。19歳で教師になってから約20年、小説作家になってから9年。教師時代の方が作家時代の2倍も長かったので、教師時代が作品に色濃く投影されているのは当然であろう。
 漱石の小説作品で主要な役割を演じた英語教師は次の人物である。
 苦沙弥くしゃみ先生 『吾輩は猫である』
 うらなり  『坊っちゃん』
 白井道也  『野分(のわけ)』
 広田先生  『三四郎』
 健三    『道草』
 このうち、苦沙弥先生、白井道也、健三の3人は主人公である。
 『道草』は漱石の自伝的作品なので、小説作家、文豪の漱石の人生においては「教師」は「長き道草を食った(遠回り)時間の無駄だった」のかもしれない。だからと言うわけでもあるまいが、上記、主人公の3人の英語教師の授業、講義についての作品中の描写はほとんどない。

 何度も強調し既述したことであるが、生徒学生に対し、漱石は優れた立派な教師であった。漱石自身は「教師」は好きでやっていたことではなかったが、誰よりも「教師としての義務」を果したことはまちがいない。
 しかし、誰でも例外なくそうであるが、わが子を教えるのはうまくいかないものである。2人の息子、長男の純一、次男の伸六に、漱石は英語の他フランス語も教えていた。子供たちが小学校から帰ってくると、書斎に呼んで教える。ところが鏡子夫人が隣の部屋で聞いていると「馬鹿野郎」の連発で、子供たちは泣く泣く部屋から出てくる。
 夫人は見兼ねて「あなたは、教えるより叱る方が多いじゃありませんか。これまで随分、方々の学校で先生をしてらして、いつもあんなに生徒に向って馬鹿野郎と怒鳴り続けているんですか」と注意する。すると、「あいつは特別できが悪いからだ。おれはできない生徒には、どこの学校でも憎まれ嫌われたもんだが、その代わり、できる生徒からは非常にうけがよかったもんだ」と返ってくる。「でも相手は、子供じゃありませんか。できが悪けりゃ、親切に教えたらいいでしょうに」と夫人はやり返したのだという。


 こうしてみると、漱石は、生徒に対して優れた良い先生ではあるが、それは「できの良い生徒には」という条件付きのようでもある。しかし、わが子に対しては、誰もが、えてして感情が入りすぎ、怒鳴ってしまうので、やはり例外かもしれない。
 本文冒頭の鈴木三重吉が紹介しているように、漱石はその教師生活において様々な経験を経、成長を続け、最終的に、「良き先生」「優れた教師」であったと言えるであろう。

著者プロフィール

堰免 善夫 (せぎめん・よしお)
長野県生まれ。中央ゼミナール(東京・高円寺)で国語科講師として活躍。小論文、現代文を担当し約40年間勤務。中央ゼミナール監事・役員・小論文主任講師の他、大学新聞社就職コンサル塾副塾長、東京国際学園特別顧問を兼任。
近年は全国の高等学校での高校生、保護者、高校教師対象の講演だけでなく、大学生向けの就職支援の講演会にも登壇している。


◇著書
『古の琴歌(いにしえのことうた)』 (小説作品集) 1987年5月
『知見の旅路』 (思索論文集) 1997年5月
誰にでも書ける 小論文学習の決定版 最も効果的な指導・学習法』 (大学新聞社) 2013年3月
『我が心の久遠・哀愁のヨーロッパ・憂愁の京都』 (紀行随想) 2013年12月

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