小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想 湯けむりの近代文学 (文学と出で湯の故里)

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小論文指導の第一人者・堰免善夫先生の教育・文化随想

湯けむりの近代文学 (文学と出で湯の故里)
2016年10月1日(土)

 日本には温泉が多い。温泉のない県はないと言ってよい。そして、おおかたの温泉場には清流が流れている。その渓谷に沿った温泉宿から立ち登る湯煙ゆけむりは、旅人の旅情をかき立てる。多彩な季節感の中に漂泊する風と光と人情のぬくもりは「文学」の故郷ふるさととなる。
 温泉いでゆは、来遊客の身も心も共に清々しくする。だから『古今和歌集こきんわかしゅう』の昔から、多くの文人をいざない、数多くの「文芸」を生んだ。その最も代表的な「近代文学の出湯いでゆ故里ふるさと」は、東は伊豆の「湯ヶ島ゆがしま」、西は但馬の「城崎きのさき」であろう。

 「湯ヶ島ゆがしま」ゆかりの文士は、思いつくだけでも、島崎藤村しまざきとうそん田山花袋たやまかたい蒲原有明かんばらありあけ、柳田国男、木下杢太郎きのしたもくたろう川端康成かわばたやすなり中河与一なかがわよいち、林房雄、今東光こんとうこう、尾崎士郎・宇野千代夫妻、広津和郎ひろつかずお萩原朔太郎はぎわらさくたろう、岸田国士、梶井基次郎かじいもとじろう、三好達治、林芙美子はやしふみこ日夏耿之介ひなつこうのすけ若山牧水わかやまぼくすい、北原白秋、水原秋桜子みずはらしゅうおうし、西脇順三郎、木下順二、椎名麟三しいなりんぞう阿部公房あべこうぼう幸田文こうだあや佐多稲子さだいねこ、平林たい子、松本清張まつもとせいちょう、そして井上靖いのうえやすし など30人もいる。
 一方、「城崎きのさき」ゆかりの文士も これまた多い。上田秋成うえだあきなり徳富蘇峰とくとみそほう泉鏡花いずみきょうか与謝野鉄幹よさのてっかん・与謝野晶子あきこ夫妻、吉井勇よしいいさむ島崎藤村しまざきとうそん田山花袋たやまかたい、柳田国男、新島襄にいじまじょう木下利玄きのしたりげん太田水穂おおたみずほ河東碧梧桐かわひがしへきごとう日野草城ひのそうじょう、田中冬二、杉本苑子すぎもとそのこ、そして、志賀直哉しがなおやなどがそうである。城崎文士きのさきぶんしは、湯ヶ島文士ゆがしまぶんしに比して、数は少ないが、城崎きのさきについて創作された文学作品は50数点に達している。

1.湯ヶ島温泉と文士

 湯ヶ島温泉は、伊豆半島の中心、天城連山の北麓にある。伊豆は「南国なんごく浪漫ロマン」と「北国きたぐに抒情じょじょう」が共存する不思議な景観に満ちた土地である。真青な海と真白な雲、この悠久の大自然。伊豆半島のどこに居ても、潮騒の響きが聞こえて来るようなおもいに駆られる。そのような風土にしか育たぬといわれる「山桃やまもも」の巨木があり、伝説の「エリカの花」がどこかに咲くと言われている。まさに南国の浪漫である。一方、熊笹茂る斜面から立ち上る霧の原生林。紫色がかった青雲にけむる針葉樹林。これこそ北国の抒情である。湯煙ゆけむりが上がる雑木林のくれないの木漏れ陽を透かして見える赤紫ワインレッド天城あまぎ。伊豆は色とりどりの変化美に富む景観を持っている。この景観を最も代表するのが「湯ヶ島」である。そして、その「湯ヶ島文学」を最も代表するのは、やはり、井上靖いのうえやすしと川端康成であろう。

 井上靖いのうえやすしは幼年時代を湯ヶ島で育った。湯ヶ島は靖の郷里である。彼の曽祖父、井上潔は、初代軍医総監・松本良順の門下で、伊豆一円に知られた名医であった。井上家は、江戸時代・明和年間以来続いた医家で伊豆の名家である。
 この郷里「湯ヶ島」を舞台にした井上靖の文学作品は実に多い。湯ヶ島の自然や生活の四季の移り変わりが、懐かしく描かれながら、自分を育ててくれた祖母との心の絆、美しい叔母への思慕が綾なす自伝的小説が『しろばんば』である。そして、『幼き日のこと』『夏草冬涛なつぐさふゆなみ』『あすなろ物語』などは、皆この湯ヶ島が舞台である。
 敷地の奥に土蔵があり、玄関に通じる表門は、生け垣で囲まれた井上邸。その玄関に向かって左手の老木が「あすなろ」である。さらに湯ヶ島に関係する作品は『早春の墓参』『雷雨』『滝へ降りる道』『蘆』『鴨』などがある。名作『猟銃』。天城を背景にした「猟人の後ろ姿」は、人生の究極「愛別離苦」を観する井上文学の原像であろう。人は何によって生きるのか。井上文学は「人間の始原的な姿」を問い続ける。
 湯ヶ島には関係しないが、井上文学の名作を思いつくまま列挙してみよう。芥川賞の『闘牛』の他、『氷壁』。一方で抒情性を、一方で虚無性をかもし出す新たな歴史小説を創生する。『風林火山』『淀どの日記』『額田女王ぬかだのおおぎみ』『後白河院ごしらかわいん』そして『本覚坊遺文ほんがくぼういぶん』へと進む。そしてさらに波乱にとんだロマンを追い、悠久の時間の流れとそれに翻弄される人間の運命を描く中国西域世界を開く。『敦煌とんこう』『楼蘭ろうらん』『天平のいらか』『風涛』そして、ロシア航路の『おろしや国酔夢譚こくすいむたん』など、息もつかさぬ井上文学の世界である。

 天成の詩人井上靖は、散文作家になり、「百科事典」を空想・想像の「宝石箱」として次々と作品を生み、次々に受賞を果たした物語創作の名手であった。しかし、井上靖の文学の故郷、心の郷里は、やはり「湯ヶ島」であった。
 湯ヶ島小学校の元日の教室の記憶を井上靖は次のようにつづっている。「元日の教室で、先生は黒板に“新しい年”と書いた。確かに新しい年であった。先生の顔も新しかったし、生徒達の顔も新しかった。教室の窓から見える青い空も、明るい陽の散っている校庭も、校庭の水溜りに張っている氷も、目に映るものみな新しかった。校門も、その向こうの街道も、街道を歩いている村人もみな新しかった。―それ以来、私には再び新しい年はやってこない。幼い日の湯ヶ島小学校の教室の記憶が年毎に遠く小さく、ゴッホの初期のパステル画のように鮮烈になってゆくだけだ」

 一方、ノーベル文学賞に輝く川端康成は、おそらく日本の近代文学作家の中で、最も不幸な少年時代を送ったと思われる。2歳で父を、3歳で母を、7歳で祖母を、10歳で姉を亡くした。16歳で、最後の肉親となる盲目の祖父を看取っている。大正7年、第一高等学校の2年生だった康成は、孤児の感情から抜け出したい思いで、伊豆へ一人旅をする。そこで旅芸人の一行と道連れになった折、踊子が連れの娘に、自分のことを「あの人はいい人ね。……いい人はいいね」と言っていたのを背中ごしに耳にする。康成の閉ざされていた心に、初めてともされた小さな灯りであった。これが名作『伊豆の踊子』のモチーフである。しかし、下田の港でついに踊子と別離する。『伊豆の踊子』はかぐわしくも淡くはかない青春の文学である。田中絹代の初代踊子から吉永小百合、山口百恵まで、6回も映画化された小説は他にない。
 『伊豆の踊子』は湯ヶ島温泉「湯本館」で書かれた。当時駆け出しの書生作家を、「湯本館」女将の安藤かねは大切にもてなした。口数も少なく風采も上がらぬ青年にそれこそ至れり尽くせりだった。かねは美人で、よくできた人であった。かねの母性が、寂しげな康成の心を暖かくいつくしんだのである。たまにある菊池寛からの送金を宿代に納めはするが、宿代はたまる一方であった。そんな日常の中に、この小説はつづられていった。「湯本館」では処女創作集『感情装飾』に収めた『たなごごろの小説』中の30篇を書き上げた。湯ヶ島に取材した作品には、その他『春景色』『温泉宿』『白い満月』などがある。
 昭和2年3月『伊豆の踊子』が出版された。その年の4月5日、宿の主人の紋付袴を借りて、親友・横光利一の結婚式に出席するために上京したまま、康成は再び湯ヶ島へは戻らなかった。湯本館では、いつ帰ってきてもよいように、彼の部屋を「川端さん」と命名し、毎日掃除し、花を活け、冬にはこたつも用意していた。女将のかねは仲居たちに「いらっしゃいませ」と迎えてはならない、「お帰りなさいませ」と挨拶するようにしつけていた。かねの没後は、2代目の女将がその志を受け継いだ。筆者の私は、それを知っていたので、川端康成先生没後に、「湯本館」のその「川端さん」の部屋に、当時をしのびながら泊めて頂いた。

2.城崎きのさき温泉と文士

 城崎温泉の歴史は古い。1500年の昔から霊泉の誉れ高く、保養の地として著名であった。両岸に温泉宿が並ぶ温泉街の真ん中を大谷川が流れ、すえを集めて円山まるやまそそぐ。逆にまた、日本海のうしおは、江を伝ってここまで通い来たる。この大谷川の石造りの橋を渡れば、由緒正しい外湯「一の湯」に至る。橋を中心に湯宿ゆやどは、川辺の柳並木に沿って二階三階の軒を連ねて狭き道を挟み、旅愁をかなでる。街にある外湯は6つの名湯湯殿めいとうゆどのである。その間、そこかしこに名産の「麦稈細工むぎわらざいく」「出石焼いずしやき」を売る店が立ち並ぶ。
 歌人・与謝野鉄幹が、同じく歌人で夫人の与謝野晶子と共に、この城崎温泉に来遊したのは昭和5年5月のことであった。


  手拭てぬぐいをさげて外湯に行く朝の 旅のこころと駒下駄こまげたの音  与謝野鉄幹

  日没を円山まるやま川に見てもなほ 夜明めきたり城の崎くれは  与謝野晶子

 城崎来遊の文士には、歌人・俳人が多い。吉井勇、木下利玄、太田水穂、らの歌人。河東碧梧桐かわひがしへきごとう、日野草城らの俳人である。

  城の崎の湯にむときはうつし世の  うれいかなしみすべて忘るる  吉井勇

  湯けむりの湯の香に泌みて雨の降る 夕べの町に入り来たりけり  太田水穂  

 「城崎の町は、京都始発の山陰線が北上して日本海へ出ようとする一里ばかり手前で、西へ折れている。その曲がり角の処に当っている」と歌人の木下利玄は『山陰の風景』の中で書いている。霧の中に煙る外灯と柳並木と湯宿。城崎は、いかにも温泉場らしい情緒をかもし出しているしっとりとした湯の街である。明治の文豪、泉鏡花は『城崎におもふ』で「城崎は、―今もかくの如く目にうかぶ」と記し、「今は柳もぐんだであろう、城崎よ!」と結んでいる。

 このように、数多くの文人を輩出した「城崎文学」を最も代表するのは、やはり、志賀直哉『城崎にて』であろう。「山の手線の電車に跳飛はねとばされて怪我をした。その後養生に一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。」冒頭の書き出しである。心境小説の新分野を開拓した名作である。日本に生まれた、そして志賀直哉にしか創れなかった作品であり、何人なにびとも称賛を惜しまぬ短編である。その小説の枠を超越した高度の芸術的結晶は志賀文学を代表する、いや日本近代文学の短編を代表する作品と言えるであろう。
 「生」と「死」を澄み切った心境と透徹した眼で描き、「生と死」は偶然か必然かを想い、生きとし生けるものの淋しさをしみじみと感じる。偶然に死んでしまった小動物を「可哀想かわいそうに!」と想いつつ、偶然に自分が死ななかったことに感謝する。「生と死」は両極ではなく、それほどに差はない。「生」と「死」の不思議な「生命」のあり方をしみじみと、簡潔にして含蓄のある文体で静かに語りつづっている。 

 志賀直哉が最も影響を受けた人々は、師としてキリスト者の内村鑑三、友として武者小路実篤であった。そして、大正期の作家のうち、志賀直哉ほど生きた影響を深く現代文学に与えている作家はいない。島崎藤村、森鷗外、夏目漱石の三大文豪と言えども、この点では到底彼には及ばないであろう。
 武田麟太郎は「志賀直哉は日本文学の故郷ふるさと」と言った。また、文芸評論家の間で、日本近代文学作家の中で一番論じられたのは『志賀直哉論』である。広津和郎ひろつかずお小林秀雄こばやしひでお正宗白鳥まさむねはくちょう、河上徹太郎かわかみてつたろう亀井勝一郎かめいかついちろう中野重治なかのしげはる唐木順三からきじゅんぞう平野謙ひらのけん山本健吉やまもとけんきち伊藤整いとうひとし、そして中村光男、これらの全てのの批評家に『志賀直哉論』がある。
 志賀直哉の著名な作品は『城崎にて』の他、『大津順吉』『網走まで』『清兵衛と瓢箪ひょうたん』『小僧の神様』『真鶴』『灰色の月』『山鳩』『朝顔』そして長編『暗夜行路あんやこうろ』などである。志賀直哉には「小説の神様」の称号が冠せられている。尾崎一雄は、『大津順吉』について次のように評している。「とにかく私はこの小説に感動した。小説というものから受ける、これが初めての大きな感動だった」と叙した後に、衝撃的なことを述べている。「この小説には文章がない!と驚いた。作者の言うこと描くことが、そのまま直にこっちに来る。間に何も挟まっていない。邪魔ものがないのだ。文章というものは、完全に機能を果たした場合、それ自体は姿を消すものだ。とにかく私は驚嘆した。」

 「湯ヶ島ゆがしま」と「城崎きのさき」この「出湯いでゆ故里ふるさと」に生まれた文学作品は、ひと言で言えば「自然と人生」をしみじみ感じる心の表出である。できうれば、現地の湯宿に泊まり、浴後よくごのひととき、古今こきん文人の心境を静思して欲しいと思うのである。

著者プロフィール

堰免 善夫 (せぎめん・よしお)
長野県生まれ。中央ゼミナール(東京・高円寺)で国語科講師として活躍。小論文、現代文を担当し約40年間勤務。中央ゼミナール監事・役員・小論文主任講師の他、大学新聞社就職コンサル塾副塾長、東京国際学園特別顧問を兼任。
近年は全国の高等学校での高校生、保護者、高校教師対象の講演だけでなく、大学生向けの就職支援の講演会にも登壇している。


◇著書
『古の琴歌(いにしえのことうた)』 (小説作品集) 1987年5月
『知見の旅路』 (思索論文集) 1997年5月
誰にでも書ける 小論文学習の決定版 最も効果的な指導・学習法』 (大学新聞社) 2013年3月
『我が心の久遠・哀愁のヨーロッパ・憂愁の京都』 (紀行随想) 2013年12月

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